カフェオレに溺れる【詩】

 わたしは毎日、ここからあそこまでの等距離を自転車で移動する。毎日は当然おなじサイクルで廻り、わたしはおなじサイクリングで毎日を廻し続ける。くるくるくるくる、ふたつの車輪を乱れなくおなじリズムで廻してゆく。ペダルを踏み込む足裏は無駄な熱をもたず、ただ機械的に冷静に、おなじ繰り返しを好む。鼓動に心地良い速さで廻すペダルはいつだって安全で、信頼できるのに、いつも何処かがすこし足りない気がする。うしろのタイヤの空気、ちゃんと入ってたかな。なにかあればチリンチリンって高い警告音、すぐに右手で鳴らせるかな。大丈夫。今までずっと手動で、自力でペダルの感触のすべてを自分のものに操ってきたじゃない。おなじ場所を、おなじリズムで廻せてきたじゃない。人間は欲深い生き物だから、すこし物足りなくなってしまっただけ。行き先での報酬が、他人からの承認という怠惰な報酬が、すこし退屈に感じただけ。わたしにはすこし怠けて生きるくらいが性に合っているのだから。



 ある日、いつも通りの時刻に帰り先に着いたわたしは、飼いハムスターと目が合った。ガタガタ音を立てて回し車を廻し続けるハムスター、回し車のなかを一心不乱に走り続けるハムスターと、眼があった。そこには黒光りするふたつのちいさな深淵が、こちらを覗いていた。真実を知るハムスターのその漆黒の深淵は、諦めの根底を角膜に孕みながら、ただすこしだけ、やさしかった。




 新しい季節の始まりのような、新しい匂いが鼻に沁みて離れない朝、なんだか気分が高揚していていつもとおなじリズムでペダルを漕げなかった。鼓動が昂って、なぜか急ぐ様に加速しては、信号でブレーキをぎゅっと握りしめて急停止したりした。なんだかたのしい、ずっとこのままでいたい。わたしは最初から、同じ場所をただ廻ってなんていなかったんだ。ずっとずっと、先へ先へと前進していたんだ。それが本当かどうかなんてどうでもよくて、なぜなら新しい朝は明るく、すべての色はとめどなく鮮やかで、何処までもわたしの味方としてそこにここに、すべてに在るのだから。

 わたしがくるくる同じリズムで廻し続けたふたつの車輪は知らぬ間に自我をもち、自ずから勝手に何処かに行ってしまっていて、そのことに気づいたのはこの季節の中頃、結構時間が経ってからだった。なぜならわたしは知らぬまにコーヒーカップに乗っていて、その加速に夢中だったのだから。君が強引に廻すコーヒーカップでカフェオレの波が揺れる、揺れる、おおきく揺れる。わたしがだいきらいな危ない運転。安全じゃない運転。そんなに強く廻したら次の回転で波が溢れて、その波に飲まれてしまう。わたしは熱く甘すぎるそれを上手く飲めないまま、されるがままに飲まれ、溺れてしまう。熱く、甘く溺れてしまう。わたしの輪郭は熱で乱されて曖昧になり、甘く解(ほど)けてゆく。わたしを乗せたコーヒーカップは急加速で、知らない場所までぐるぐる進む、進む、進む。目が廻って遠心力の方向さえわからなくなる。君は強引に、眩暈のままのわたしの手を引いて、赤い螺旋階段を上へとぐるぐる登る、登る、登る。ふたりの足音は止まらない。一体どこに着くのかと聞いても、きみに声は届かない。嗚呼、たのしい、たのしい、たのしい。君の熱よ、わたしを揉み解く甘い熱よ、どうか永遠に醒めないでいて。わたしは当然の様にハムスターの眼も、他人の眼もすっかり忘れ切っていく。こんな愚かなわたしを、許して欲しい。そんなことを願う前に、既に圧倒的にすべてを許されているわたしにはもう、こわいものなんてひとつもない。代謝の悪い汗を散らし、定まらない脈拍、乱れる呼吸のリズムで、今、わたし、新しいきせつを駆け上る。


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