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酌婦と雇女

酌婦とは、料理屋、飲食店、貸座敷において、配膳、酌取をする人で、イメージとしては旅館の仲居さんのようなものです。

酌婦の方が税金は安く、大正8年の時点では芸妓が月税6円90銭に対し、酌婦は年に6円30銭でした。 

それほど収入が低かったのです。その為、多くの酌婦は身体を売りました。いわゆる私娼となっていったのです。 

そうした酌婦の中でも芸ができる女性は、雇女(やとな)と呼ばれました。

これは、大阪より西の独特の接客婦であったと言われています。 

料理屋、貸座敷、一般家庭によばれ、配膳から酒などの斡旋をしました。

三味線もひくし、歌や踊りもする。

宴会が終われば膳の片付けをして、時には夜の相手もつとめます。

踊りや歌もできる家政婦が、夜の相手もしてくれるみたいなものです。

それでもって代金は芸妓や娼妓より安かったのです。

この雇女の出現は福岡の遊郭、新柳町にとって痛手となりました。彼女達に対抗して料金を値下げしなければいけなくなったのです。 

この雇女達の根拠地、雇女券番は南新地にありました。券番とは、登録している女性と斡旋する事務所のようなものです。

この雇女達が、中州で遊んで、新柳町に繰り込む遊び客を途中で遮ぎっていたのです。

雇女になるのは、もと芸者や亭主持ちで、簡単になることができました。

ですが、遊郭のように管理されてはいませんでした(月に一度の梅毒の検査などはなかった)ですから、病気持ちが非常に多かったそうです。

それが問題となり、警察の取り締まりも厳しくなりました。

それに乗じた遊郭側の反対運動も大きくなり、大正8年に雇女券番は解散させられます。


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