懐古厨?コスプレ好き? 平野国臣
幕末筑前の志士、平野国臣は武士の身分でしたが月代を剃らず総髪でした。また刀の代わりに太刀を佩いていて、烏帽子、直垂(平安貴族みたいなやつ)と言った服装を好んだと言われています。
これは、現在で言えば、地方公務員が羽織袴で髷を結って出勤するようなものです。
彼は古代日本の作法やしきたりの研究にあけくれ、自らそれを実践しようとしていました。
平安時代の風習であった犬追物(犬を使った狩り)を復活させようと、藩主に直訴まで行っています。
この時代、直訴は極刑のはずなのですがなぜか許されています。おそらく「あの変り者が何か言ってるぞ、ほっとけ」くらいの感じだったのか、黒田藩が緩かったのか?
なぜ、直訴までして狩りを復活させようとしたのかというと、狩りには「軍事訓練」としての一面があるからです。
江戸時代という、戦のない時代に慣れきってしまった武士への警告だったのかもしれません。
さて、平野国臣はどうして古い作法を研究したのでしょうか?
平野は18歳で藩に仕官すると、普請方手付(土木・建築作業員)となりました。
初仕事は台風で破損した太宰府天満宮の楼門の修理でした。
その後、21歳まで江戸藩邸勤務となります。
幕末には日本の歴史を学ぶいわゆる「和学」が流行しました。一つのきっかけは、頼山陽という人が書いた「日本外史」という歴史書がベストセラーになったことです。
当時の出版は江戸、大阪が中心でしたので江戸藩邸勤務のさい、平野国臣もこの本に触れたのかもしれません。
以前、太宰府天満宮で歴史の編纂などをされている味酒さんという方にお話しを聞いた時
「日本は長い歴史の中で、何十年という間隔で和学と異学の流行が繰り返されている」と言われていました。
ここで言う異学とは中国から来た「漢学」や西欧諸国からきた「蘭学」「洋学」のことです。
この繰り返しのスパンで考えると、江戸時代中期の「漢学」ブームから幕末、明治初期に「和学」が盛り上がり。
大正時代に「洋学」ブームがきて、戦前は「和学」で統一され、戦後は「アメリカ文化」が興隆し、現在は再び「和学」が盛り上がってきている時期だと言えます。
こうした世間の「和学」ブームが前提としてありました。
そして、国臣の考え方を変えたのは24歳の時、沖津宮(世界遺産になった沖ノ島関連遺産)の修繕で宗像の大島という島に赴任した時だと言われています。
そこには薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」で薩摩を追われた北条右門という男が匿われていました。
彼は開明的で知られた島津斉彬派の人物です。
薩摩藩は琉球を支配化に置いていたため、そこから入る海外の情報に広く通じていました。
北条右門から、異国の情報や尊皇思想を教えられます。
その後、国臣は再度江戸へ行き、1853年のペリー来航の年に福岡に戻ってきます。その後、長崎へ赴任、初めて外国人に触れています。
異国の脅威を感じた平野は、日本を幕藩体制ではなく日本古来の天皇による中央集権体制に戻すことで、国難を乗り切るべきだと思い、古来の日本の作法や風習の研究に没頭するようになったのだと思われます。
にしても、コスプレまですることはないだろうと思いますが、それが平野国臣なのです。
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