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“何”ならイジメても良いのだろうか イジメは群れ理論

1、〇〇ならばイジメて良いのかもしれない

巷に溢れるいわゆるの「イジメ」の話題で問題視されるケースは、基本的に全て「人」に「群がって」起きているものである。


しかしイジメは群れ、イジメることは群がることだと置き換えた場合、当然「人」以外のものへ「群がる」ことも世の中にあり得ることを意味している。


例えばそれは「ボール」に対するイジメ、「球技」や「スポーツ」などのことである。


「サッカー」で考えてみれば分かりやすいと思うが、本来「人」を追いかけ回したり蹴り飛ばすことは法に抵触しかねない危険な行為である。しかし「サッカーボール」に対して同等の行いをしたところで何ら問題がないことが分かる。

また「野球」などでも同様に、バットで「人」を叩くのは暴行や傷害に当たる行いであるが、それを「野球ボール」に対して行うことは、叩く(打つ)人もそれを観ている人も爽快感を味わえるものである。


もちろん基本的には周りの安全に配慮する必要があるものだが、きちんとルールを守った上での「(ボール)いじめ」であるならば、それは世の中に認められた行為、競技と同じものなのである。


大人は子供に安直に「イジメを許すな」などと謳う前に、イジメても悪影響が無いもの、悪影響が極力少ないものに目を向けさせ、触れさせるようなアプローチを講じる必要性があるのである。


2、競技ならばイジメが許されてきた余波

「町の乱暴者が格闘技などのスポーツに出会うことで更生を果たす」といった御伽噺を皆様も一度は聞いたことがあると思う。

あれもまた「群がる」対象が「人」から「スポーツ」などに変化したことによって「人」を傷付ける危険性が下がった話と考えれば腑に落ちるのではないだろうか。

さらに「競技」を通じて「目標」ができ、そこへと群がることによって他者との切磋琢磨を繰り返し、その結果として周囲と折り合いをつけられる人間が育つ、といった具合だろう。


さりとて「イジメ」は「イジメ」だとして捉えた場合、たとえそれが「スポーツ」であっても、相手が「ボール」であっても、加害者的な在り方を許してしまっている側面は強い。

古い時代に“体育会系”の人間たちの暴挙が目立っていたのはこのためで、そのノリ(則)は本来あまり人に向けるに適した在り方では無かったということである。


しかしそれを彼らに教えられる優れた指導者も少なく、指導者自体もそれを教わる機会を逸したような人だらけだったということだ。

「勝てば良いんだ!」「勝たなければダメなんだ!」

勝利至上主義は教育になっているのか?

何かを追いかけることや競争自体が悪いのではなく、その力への向き合い方を理解していなかったり、短絡的な競争原理“だけしか”教えられない,教われなかった人たちの問題がそこに渦巻いていたということである。


「ボール」を追い回す力と同じ力が「人」に向くことが、結果的に、上級生による下級生への理不尽な扱いや、体罰などに繋がり兼ねない性質を孕んでしまっている。


どういった対象ならばイジメて(群がって)も良いのか、それにどんなデメリットがあるのか、別の触れ合い方は無いものなのか、そういった発想すら生み出せない競技者や指導者たちに教わることなど多分何もないだろう。


3、「人」を「イジメる」ことへの注意点

イジメは群れ、イジメるとは群がることを前提に置いて。


とどのつまり「友達作り」なども「人」に「群がる」ことを意味しているため、これもまた「イジメ」の問題なのである。

だからこそイジメ自体や傷付くことを必要以上に恐れてしまうと、誰とも人間関係が構築できないような人が生まれて来てしまう問題がある。


またある意味で体育会系的な人たちがノリを重視し加害的になりがちなのは、そもそも「人」と「人」との触れ合いの中で相手を傷付けてしまう危険性をゼロにはできないからである。

そして彼らは良い意味で衝突を悪だとは捉えていないため、多少のぶつかり合いを繰り返しながら、各々が心地良い関係性を築くのが上手な側面がある。


さらにその中に、そもそも他者を傷付ける可能性すら考えられないタイプも含まれていて、彼らが(表面上)多くの友人に恵まれていたり、いつ見ても恋人が傍らにいるような日々を送っているものである。

しかしその内情は空虚感で“満ちて溢れている”可能性があり、だからこそ歳を重ねても他者をバカにしていたり、怒りに振り回されるような性質を抱えているものである。知らぬが仏でもあるだろうが。


彼らもまた“豊かなイジメ方”を知らない人たちなのだと考えられる。


結びに

先日ツイッターでこんな投稿を目にした。

「自分の周りにいたイジメっ子たちは皆、親からオモチャを買い与えてもらえない家の子供だった。」

親から他者との距離感の大切さを教わる機会を与えられず、尚且つ追いかける対象(おもちゃやスポーツなど)も与えられない子供たちほど、自らの感覚に頼って互いに衝突を繰り返すような成長をするしか無くなるものである。

そして彼らの目の前には、同じく孤立しがちな「人」の存在があって、それが「イジメ問題」へと発展していくものなのだ。


イジメが群れである前提に立って考えてみれば、我々が日頃選ぶべきなのは「イジメはダメ!」といった否定的な教えではない。

「〇〇っていう遊び方があるんだよ」
「別の方法だったらもっと楽しくなるんじゃない?」
「あっちにもっと面白いものがあるよ」

などといった別の方向性を示すことや触れ合い方のバリエーションを増やすようなアプローチである。

それこそ加害者的な存在が、「人」ではなく別の興味対象に意識を向けてその場からいなくなってくれれば被害者としても願ったりの展開のはずである。


我々には互いが強くぶつからずに済むような“イジメ”がまだまだ足りていないのである。

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