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僕の読書術

僕は読書が好きだ、と思う。
子供の頃から絵本を読み聞かせてもらわないと寝ない子供だったらしい。今でも母親に愚痴られる。「あんたは絵本の一冊や二冊読んだだけじゃあ、寝ない子供だった」と今でも言われる。「そりゃあ、苦労したもんだ」と、繰り返している。どれだけ寝ない子供だったのか。当時の母の苦労は知れないが、とにかく10冊近くの本を読み聞かせしないと寝なかったらしい。
めちゃくちゃ本が多かった、という家でもなかったけど、子供の頃から本は身近だった。国語の教科書にのている小説は授業で習う前に読んでしまう学生時代だったし、国語と数学の成績が釣り合わなくて、平均的にほぼ真ん中の成績だった。昼休みは教室ではなくて、ほとんど図書館にいて、雑誌を読んでいた。そのおかげで文学部に進んだけど、「学問になると興味のない本も読まにゃいけないんだな」と学んだ。それに文学部には自分よりもとんでもない量の本を読んでいる連中がいた。彼らはまさしく本の虫だった。結局、僕は軽音サークルに入って、どちらかといえば音楽ばっかり聴いていた。それなりに本も読んでいたけど(というか読まなきゃ単位を落とすから)真面目な文学部生ではかったかもしれない。最後に選んだゼミは、結局、「本」をテーマにしたものではなかったし(伝統芸能のゼミだった)卒業論文は元々、趣味程度に好きだった落語をテーマにした。まあ、でも、それなりに小説は読んでいた。サークルの中に本読みの友人がいたことは幸運だったし、彼らがいたことで、本から離れないで済んだのだと思う。本は大好きだが、それ以上に音楽も、映画も好きになった。本は僕の中でそれくらいの熱量になった。
それでもなんの因果か、僕は文章を書く仕事に就いた。
しかし、文章を書く仕事に就いたせいで、社会人になってから本から遠ざかることになった。一日中、文章を書いて、へろへろになって帰宅して、また文章を読むなんて気力はなかった。
それでも、少しずつ、社会生活にも慣れて、本を読むようになった。
まあ、つまり、僕の30年間はほとんど本と一緒に歩んできたわけだ。一冊も本を読まなかった一年はないわけだし、それくらいの熱を持っている。

今日は僕の読書術とタイトルをつけた。読書について話す機会があったからである。
といっても、僕に読書術はない。メモもしないし、付箋もしないし、カバーもしない。風呂でも、電車でも、仕事場でも、家でも、公園でも、河原でも(鴨川を眺めながらの読書は最高に気持ちいい)キャンプ場でも、どこでも、読む。もちろん、本は汚れる。だけど、その汚れに愛着が湧くのだ。汚れれば汚れるほど(といっても限度はあるけど)その本が自分に染み込んでいるのだ気がする。そして、ためらないなく、売ったりもするし、そしてまた読みたいな、と思ったら、買い戻す。積読もするし、途中まで読んでやめたりもする。僕に読書術なんてものはないのである。実は付箋を貼って覚えたりすることに憧れて、試してみたことがあるのだけど、本を読むテンポが崩れる気がして、僕には合わなかった。メモも然り。結局、ストレートに一冊読んで「あ〜、面白い本だった」これが僕にとって最高の読書である。でも付箋を貼ったりするのってかっこいいですよね。メモするのにもやっぱり憧れる。「心に沁みた一文」とかを手帳にメモっておいて、あとで見返す。そういうの憧れる。いつかやってみたい。

読書術かなのかどうかわからないけど、僕は2年間、病に伏していて、確信したことはある。それは「然るべき時に然るべき読書は"やって来る"」
もちろん、人生の中で読める本の冊数は限られているわけだし、この世にある全ての本を読むなんて不可能だ。だけど、人は、その人の人生において、「どの本に出会う」かは運命づけられているのかもしれないと思う。人生に苦しい時、本の方から"やって来る"。そんな気がする。

本を読めなくて悩んでいる。たまにそんな声を耳にするけど、実は本って本来は読めないものなのかもしれない。「本を読めない」ことこそ、人間本来の姿なのかもしれない。本を読めないということは、つまり、「"今"は本を読む必要がない」ということなのではないか。
本を読めないと悩んでいる方は、いつかきっと、「出会うべくして、出会う」そんな本を見つけられる、幸運な人なのかもしれない。本と人は、惹きつけあっている。

今日のパステル画『夕方の団栗橋の空』

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