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短編小説 『夜明け前に立ち』

夜の闇を創ったのは、彼女の心をそっと包むため
波の音を創ったのは、その言葉を掻き消して心に残さないため
(よっしぃさん)

ー ー ー

 僕はもう、年齢でいえば、充分立派な大人なんだろうけれど、中身はほら、相変わらず子供のようで、いや、子供ともまた違う。
 純真ではない。
 綺麗なものや、景色、音色、言葉。そういうものを知ってしまった。
目を背けたくなるようなものごともまた、知ってしまっていた。

 それは世界という事象の中のほんの一部に過ぎないのだけれど、とにかく僕はもう純真ではないのだ。絵の具バケツの透明な水の中に様々な色をぽたぽたと落としていって筆でばしゃばしゃとかき混ぜてしまったような、形容のしようのない、ぼんやりとした気持ちで生きている。

「それじゃあここで」

 波打ち際をそろそろと歩いていると、真闇な中で響く音が全身を揺らすようで、僕らを生かしている内なる熱は、細く鋭い風によって冷えてしまった。

「ここまでなの?」
「ここまでだ」

 幾層にも包まれていた月が僅かに顔を出すと、夜の色を優しく彩った。青白く幽閑とした光。その下に立つ。

「こんなにも怖いのに?」
「それでもだ」
「こんなにも想っているのに?」
「……それでもだ」

 どどん、どどんと波音が響く。月はまた姿を隠す。夜は暗闇を取り戻し、僕ら二人を閉じ込める。

 一歩先を歩いていた彼女は僕を正面にして立ち止まった。僕もそれにならい立ち止まる。

 足元の砂はたっぷりと海水を含ませていて、靴は地面に沈み、きちんと立っているはずなのに波に合わせてぐらぐらと揺れているようだった。

 立ち止まって僕ら二人、何を話す訳でもなく、じっと見つめ合う。

 言葉にするのが怖いのだ。嘘のようになってしまうから。
 口にするのが悲しいのだ。気持ちがあやふやになってしまうから。

 暗闇の力がどんなに大きかろうと、夜はやはり美しく、今目の前に同じように美しい彼女が存在していた。彼女という個の存在はなく、内側の真実。それは過去にも現在にも、そしておそらく未来にも存在するのだ。そうして僕はこの夜と月の光とが溶け合うように、彼女と溶け合うことを望んでいた。

 それでも僕らは黙って向かい合う。

 一言でも、そう、一言でも言葉を口にすれば、それだけで彼女を、或いは僕を苦しめるような気がする。
 いたずらに、苦しめるような気がする。
 いっそのことこのまま黙って微笑んでいればいいのだ。
 闇で見えなくたって彼女もきっと微笑んでいる。けれど僕らは臆病だから、何か言葉を口にしなければ不安で仕方がない臆病な人間だから、わかっていながらそれが悲しかった。

「僕たちは」
「うん」
「僕たちは同じことをして、同じものを見ていた」
「そうだね」

 どどん、どどん。
 波が音を立てて迫ってくる。
 その中に微かに感じる彼女の熱。呼吸。

「けれど違うものを感じていた。僕たちはこれから先も決して一つにはなれない」
「そうだね」

 まだ生きているのだ。僕の中で燦然と。そう思えた。風が僕らを裂き、月がまた光を世界に放った。見つめ合う彼女を照らす。その黒く大きな瞳に滲んだものに光が留まった。その光はしばらくすると一筋の線として静かに彼女の頬を伝い落ちていった。

「だからここまでなんだ」

 その瞬間。僕の世界も滲み出した。目の前の全てがぼやけて、目の前の彼女が溶けて、僕の幼さと共に消えていく予感があった。

「私たち」
「うん」
「どこまで分かり合えていて、どこまで分かり合えなかったんだろうね」
「わからない」

 降り積もるような取り留めのない穏やかな日々。そこに生まれ続けた小さな歪み。隣り合った日々の一つ一つを少しも色褪せずに胸にしまい続けることが出来たのならどんなに良かっただろう。

「けれどここまでだ」

 振り絞った声は海風にあてられて力なく彼女へと向かった。
 夜の闇の中で彼女が頷く。もう聞き返すことも、話しかけることもなかった。

 微笑む彼女を目に焼き付けようと、じっと見つめ、やがて瞬いた直後に、そこに彼女の姿はなかった。溶け合ったのだ。夜と月の光のように。

 僕はそのまま立ち尽くしていた。

 どどん、どどん。

 波の音だけが変わらずに耳の奥で響いていた。

 僕は彼女が立っていたところへと足を一歩踏み出した。すっかり砂に埋まった足を前に出すのは少しばかり骨が折れた。これからもきっとそうだろう。歩き出す速さで生きていく。

 彼女の立っていたその先に明日があることを僕は知っている。

 夜は変わらずに闇に包まれていたけれど、風がいつか雲を散らすだろう。そうすれば月の明かりが僕を照らすだろう。

 ここから先は独りで歩かなければならない。

 振り返ってみても、夜はやはり夜だったけれど、闇の濃さが深いような気がした。戻ることは出来ない。戻ることが出来ないのならば、歩いていく先に自分の居場所を見つけるしかないのだ。

 僕はまた一歩足を前に踏み出した。

 夜明けまではまだ随分と遠いみたいだ。


―了―

ロゴの記事を読んだ際に、ハンドメイドは単にあたたかく、優しいものではないという言葉が印象に残りました。
感性と感性で手を繋ぐ事の難しさみたいなものを書いたつもりです。

帯を付けてくれたよっしぃさん

編集・作成して頂いたみなさん


良い経験であり、思い出になりました。
今後ともよろしくお願いします。

ありがとうございました。

貴方のその気持をいつか僕も 誰かに返せたらなと思います。