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新アカウントとイワヤの日記

 岩崎弥太郎の日記を現代語訳しつつ、内容紹介をするための新アカウント「岩崎弥太郎 幕末青春日記」に記事を掲載しました(リンクは最下部)。前書きはすでにアップしてあったのですが、本日、日記本文の第1回を投稿したので、ここでお知らせすることにします。

 今回のタイトルの「イワヤは、坂本龍馬が手紙の中で岩崎弥太郎のことを少しバカにする調子で書いた時に使った「岩弥」に由来します。実は、新アカウントのタイトルを「下級武士イワヤの日記」にしようかと考えていた時があったのです。結局断念したものの、少し残念なので、ここで1回だけ使うことにしました。

 閑話休題。私は岩崎弥太郎を身びいきすることはないですが(身内ではないので当たり前)、最近になってWikipediaの「岩崎弥太郎」の項を読み、少し擁護したくなりました。私の新書が参考文献にあげられていますが、項目の著者は読んでいないようです。

弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。

Wikipedia「岩崎弥太郎」より一部引用

 弥太郎が「インサイダー取引」をしたと断定しています。しかし、それを裏付ける文献は記載されていません。これはWikipedia的にまずいはずです。この件に関する史料は極めて限られていますが、「10万両の資金云々」というのが憶測や風説の類に過ぎないことは断言できます。

 また、岩崎弥太郎が世評と違って、政商だから成功したのではなく、事業を成功させたからこそ政商になった、というのは拙著の主要な論点の一つでした。これについては、私の本ではなく、前に触れた東大経済学部教授(当時)武田晴人先生の著書から引きましょう。

弥太郎が土佐藩時代からの人的なつながりを利用して、有利な情報を得ることができる面をもっていたとはいっても、自ら進んで政商的な利益を求めたというよりは、「政府に選ばれて」政商としての役割を果たすことになったという方が適切ではないかということになる。

『岩崎弥太郎』武田晴人、ミネルヴァ書房、2011年

 産業基盤が脆弱で、株式などの資本市場も未熟だった明治維新期の日本では、政府主導の産業政策は必然であり、誰かが「政商」になることは避けられなかったのです。ある時期、岩崎弥太郎が明治政府を相手に狡猾に振る舞ったのは事実ですが。

 また、当時の人々は、なぜ弥太郎の三菱が成功したのか理解できず、彼の悪役的なイメージや評判もあって、何かズルをして儲けたのに違いないという憶測が生まれました。この風評が大きく作用して、初期三菱の先進性については、21世紀になった今でも、上記Wikipediaのように認識されていないという状況なのです。


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