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岩崎弥太郎 幕末青春日記 前書き

 岩崎弥太郎は三菱の創業者として知られていますが、彼がユニークな日記の書き手であることは殆ど知られていません。このnoteでは、弥太郎の遅い青春と言える二度の長崎赴任時代を中心に現代語抄訳+解説で紹介します。

 岩崎弥太郎は、1835年(天保5年)土佐藩に生まれた地下浪人じげろうにん(名字帯刀を許されるが事実上は農民)の長男でした。紆余曲折の後、藩の重鎮吉田東洋に学才を見込まれ、外国に向けて開港された長崎の事情調査に派遣されます(1860年。安政6年)。翌年元旦に日記を書き始め、断続的に1874年(明治6年)まで続けました。

 次回、日記の第一巻にあたる「瓊浦けいほ日録」から紹介を始めます。「瓊浦」は美しく波穏やかな長崎湾の美称。この日録の冒頭に「前文」がついています。

 事の雅俗を問わず、語の俚雑りざつを論ぜず、事実を要記し、もって後日の遺忘いぼうに備えるのみ。(以下略)

 公的な行事や儀式ばかりでなく俗事でも構わず記し、言葉が田舎じみていようとまとまりがなかろうと問題にせず書きとめ、事実の要点を記す。後日忘れた時に備えることだけが目的である。(私訳)
 不問事之雅俗 不論語之俚雑 要記事實 以備後非日之遺忘耳

 備忘のための日記に事実を「要記」することは、この時代の日記において普通のことでした。弥太郎の日記は、心の内のことまでも事実として書いている点がユニークです。そうした例を、日記中に何度も見ることになるでしょう。弥太郎の日記は、この他にも当時の日記として他に類のない個性を持っていました。

 岩崎弥太郎の日記には、当時の常識に照らせば、余計事や些事とみなされることが多く記されています。日記に些事を書くことは、現代では当たり前ですが、当時は違っていたようなのです。ここに弥太郎の異才が現れており、彼の日記をユニークなものにした理由があります。弥太郎以前に、こんな日記を書いた人は殆どいなかったと私は考えています。

 なぜ私が岩崎弥太郎の日記を紹介するのかという詳しい事情などについて、私の別アカウントに記事があります。また、使用している文献については、後日このアカウント内に「マガジン」を作成し、別アカウントの記事と共に掲載する予定です。


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