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日々と写真,2000年(1)

明治神宮の写真室を辞めたのは、2000年の6月頃だったと思う。当初私の目的としていた「デジタルアルバムの編集」がほとんどなくて、その他の仕事ばかりで、かといって婚礼写真のプロを目指す意図もなかったので、そこにいる理由がなくなってしまったのだ。夜のつきあいも辛かった。一日15000円のギャラなのに、他のギャラの高いカメラマンと一緒に飲みに連れて行ってもらって、それで、8000円とか飲んじゃったりして、安くても4000円くらいは払っていたかな、とにかくもう、これじゃ生活もヤヴァいでしょう、と。

話は変わりますが、下の写真は佐竹さん。つきあっていた訳でも何でもなく、お友達なんですが、彼女が芸能事務所に所属していた関係で宣材撮影兼ポートレート撮影の練習みたいなこと、時々やってたんです。

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で、それは多分2000の2月か3月か頃からだったと思うけれど、ちょっと怪しい事務所で、色々悪評はありましたが、そういうところに出入りするようになって、宣材写真とか撮るようになったんです、そちらもギャラは安かったし、機材の追加投資で完全に赤字だった訳ですが、私としては、そちらのほうになんだか「未来」があるような気がしたのです。あ、これ、すごく綺麗に書いていますよ。「未来」とか言って。その事務所の怪しさと言ったら、そりゃもう・・・。まあそんなこたぁ昔の話ってことであれこれ書く気はありませんが(私だってその「怪しい」側に立って撮影料をいただいていた訳だし)、それからですね、この頃独学で身につけたWeb制作で、JavaScriptなんかもある程度書けたので(当時JavaScriptが素で書けた人、あまり居なかったし)、いくつかの仕事なんかも受託したりしました。って馬鹿!どうしてそっちに注力しなかったんだ!当時からWeb業界にもっと進出していれば今頃は……湯河原には居なかったかもしれないか、それはそれで困るのだけれど。

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それから、これは奇特な例ということになろうけれど、ちょうどこの頃、ある不動産会社が「新築住宅の写真を撮るカメラマン」を探していて、それで、今は別の人がやっているけれどあくまで一時的なもので、継続して撮影してくれる人を探している、という案件もありました。これは翌年の2001年頃まで続いた。その先続かなかった理由は、これは業界の環境的な理由があって、写真より、当時出始めたCADから起こした完成予想図を流用した方が写真代が節約出来て、その分多くチラシが刷れる、ということだったようです。まあ、それはそれとして、今は2000年の話をしましょう、佐竹さんには随分練習させてもらいました。

でも、まあ、そんなこんなで芸能やらWebやら不動産やら、俺、もしかしたらフリーになっちゃえばいいじゃん、みたいなことを思って、2000年の6月くらいに明治神宮の写真室を辞めたんです。まあ相変わらず「未来」はなかったです。芸能事務所には1年弱くらい出入りしていたかなあ。けっきょく色々あってフェードアウトして。

だいたい「未来」とか、矛盾しているわけです、というのも、私は1996年に仕事を辞めた段階で、2001年頃には蓄えを食いつぶして自殺でもするしかないなと思っていた訳で。明治神宮の写真室のアルバイトで若干それが先延ばしされただけの話で、だからこそ怪しい事務所にも出入り出来た。もうどうだっていいや、みたいな。

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Web関係というのは、まあちょっとだけ、当時の「ITバブル」にも乗っかったって感じといいましょうか、大儲けは出来なかったけれど、お金は入った。

画像4当時の試算では、2002年頃の自殺が2年くらい伸びた計算だったかな。

画像5佐竹さんとはあくまで「お友達」で、撮影料を取ったこともなければ、ハグさせてもらったとか言うこともありません。

画像6こういうのが一般的な宣材写真な訳です。

画像7これも。この頃、スキャナの調子が悪くて補正に苦労しました。銀塩で撮っていたんです。お金はかかるし大変で。

画像8で、話が随分飛ぶんですが、この頃、箱根にうらぶれた温泉宿を見つけて、その宿は日帰り温泉もやっていて、時々そこに行ったりしていました。小田急のロマンスカー乗ってね。午後から夕方頃まで温泉に入ったりしながら、ごろごろしている。ビール飲んだり。一人でね。

画像9本質的に淋しい奴なんです、私。あと、電車は、乗れるときに乗っておいた方がいいというのが、私の持論。小田急のRSEなんか、7000系より先に廃車になっちゃうなんて、当時夢にも思わなかったものです。RSEは逃したな、むしろ当時レアだった371系狙いで。371系も廃車になってしまいましたが。

画像10夜景に凝っていた時期もあったみたいです。忘れていたけど、データを見たら少し出てきた。これは渋谷。多分何かの仕事の後だろうなと。

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このころ、今の奥さんのひなさんとはどうだったのかというと、連絡を絶っていた時期だったんです。1998年に再会して、それからしばらく連絡を取り合ったり会ったりしていたのですが、なんかうまくいかなくなって、私は渋谷の夜景なんかを撮っていた訳です。

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その渋谷ももう今では東横線が地下に潜って、風景もだいぶ変わっているんですけれど、別にこんな写真、貴重でも何でもないやね。

画像13あるいはまたは、休日に江ノ島とか行って、もうよしゃあいいのに砂なんか撮っていたんです。何にもならないっちゅうねん。こんなん。

画像14波とかね。

画像15そしたらそこで、この2人が、写真を撮っていたので、「撮りましょうか」と声を掛けた。

画像16この子とはしばらくメールのやりとりがあった。でも、もう名前を忘れてしまった。

画像17例の事務所の公演後。松沢さんだっけ?左の子。下の名前は忘れてしまった。この頃が、事務所に出入りしていた最後の頃だったと思う。

画像18どこの猫だったのか、さっぱり思い出せない。

画像19多分、鎌倉高校前あたり。

画像20この頃とは、東横線も随分変わっているという。

画像21何というか、孤独でね、でも私、孤独には弱いんです。弱いくせに、結局それを選択してしまうという。だから自殺見通しなんて立てたんでしょうけど。

画像22私ももう30過ぎてましたからね、それで年収1000万とかあればともかく、年収100万なかったんじゃないかな、ある意味、あきらめも大きかったというか。てゆーかあきらめるほかないでしょう。

で、10月か11月くらいだっただろうか。
ひなから突然連絡が来たんです。本を出版した、と。「ユアーズ」という詩画集。https://iijiman.stores.jp/items/5b17d7ee5496ff79840025c1
で、それをきっかっけに連絡を取り始めた。デジタルカメラのデータによると、11月29日に再会している。

画像23その日、私は、最後かもしれないと思ったんです。ひなに会うの。なぜなら、その時、私はひなに告白したから。振られて、もうそれで終わりか、と。でも、もう私も「友だちとしては付き合えない」気持ちになっていた。

そしてここで運命が動き出す、ひながOKを出してくれたのです。
ひなが元住吉の私のワンルームに遊びに来たりするようになったし、私も2週間に一度、湯河原に行くようになりました。

画像24データをほじくっていたら、こんな写真も出てきました。朔ぴょん、0歳。

画像25このころ、ひなは病気の具合がとても悪くて、苦しかったのです。今見ても辛そうです。

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