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日々と写真,1992~1995年

この頃の私に何か目標があった訳ではないが、写真は撮っていた。写真を撮ると行っても、大学時代からそうだったけれど、オートフォーカスのコンパクトカメラにポジフィルムを詰めて、絞りやシャッター速度、ピント合わせなどはカメラお任せだった。よく分からないけれど、写ればいいや、と。

画像1銚子漁港。

画像2関東鉄道常総線三妻駅。

画像3茨城県つくば市。

画像4上田交通別所温泉駅。

画像5羽越本線越後早川駅。

画像6JR羽越本線沿線風景

画像7東京駅

東京駅。京浜東北線103系。このあと京浜東北線は209系に置き換えられ、さらに、2018年現在ではE233系に置き換えられている。後ろに写っている東京駅丸の内駅舎の屋根も、第二次大戦の空襲で3階部分とドームを失って仮復旧した状態のままだった。

画像8東京駅。ドームが復元されていなかった頃の東京駅の写真って、ある意味で貴重かも。

画像9東京駅。東海道線211系。この車輌も2018年現在、E231系1000番台と、E233系3000番台に置き換えられている。遠くに見える丸みを帯びたビルは「国鉄本社ビル」。この建物も再開発で取り壊されてしまって、今はない。

画像10茨城県常総市関東鉄道常総線。

画像11JR米坂線。

1993年1月。この年の春、私は「神奈川県立住吉高校」の事務職員に転勤となった。実は学校事務というのは神奈川県庁では「左遷先」の一つで、私を評価してくれていた人たちは「どうして君が学校へ?」と驚いたものだ。私は3年通った横浜出納事務所で、一端の「審査担当者」となり、年末調整事務の説明会で説明役を担当したりもした。私が学校事務に転勤となった理由は簡単。自分で希望したから。そして同時に、人事異動の希望調査書類に、県庁(本庁)批判を書いたから。

出世コースから外れた、と思うと多少ショックではあったが、しかしこの時、私はやっと「5時になったら帰れる」職場環境にありつくことが出来たことに幸福を感じた。

それと同時期に、彼女が出来た。彼女は同期同年齢で、ちょっとした美人だった。彼女と付き合っていた頃は、ほとんど写真を撮っていない。はっきり言って私は、ダメダメな彼氏だったと思う。半年くらいで別れてしまった。彼女の方が「異性の付き合い」に慣れていて、私はあまりにも未熟だった。ただ、彼女から教わった「女の子のことあれこれ」と「デートコース」は、非常に勉強になった。横浜出納事務所で覚えた財務規則なんか今ではまるで役に立っていない。でも、彼女から教わったことは大きい。そういう意味で、別れた彼女を悪く言うつもりは全くない。本当に感謝している。

1993年12月、ふと、カメラを買ってしまう。CONTAX T2。渋谷のさくらやで、3年保障の保険料込で84000円。それまでは、奈良のカメラ屋で18000円で買った、富士のカルディアHITEというコンパクトカメラを使っていた。高級コンパクトカメラの元祖と言われるT2も、当時の私には不似合いというか、結局カメラ任せなので、絞りが変えられるとか、ましてや露出補正なんて、何が何だか分からなかったが、持っていると何だか嬉しくなるカメラではあった。ここからはT2で撮った写真。

画像12千葉県銚子市外川漁港。1994年1月1日。

画像13岩手県JR岩泉線岩泉駅。

画像14岩手県釜石市。

画像15静岡県JR東海道本線。

当時の県立学校事務職員には夏休み期間中に「事務研修」というものがあった。これは何かというと、正規の夏季休暇3日や有給休暇の他に、事務職員が交代で(事実上)休みを取ることができたというものだった。教員には法律で定められた「職場の外で研修を取ることが出来る」という制度があって、夏休みは「マル研」といって、出勤簿に「研」の判子を押して、休みを取ることが出来た。(とはいえ、今では誰もが知っているとおり、教員というのは意外にブラックな職業で、当時も部活動の顧問を担当している先生は、夏休みでも毎日学校に来ていたりした。)
で、事務職員には研修があるのか?というと、法律的には定められた研修制度はない。ないのだけれど、職員組合と教育庁との合意事項で、事務職員にも夏休み中に合計10日、「職場を離れての研修」が認められていた。
もちろん私はそれを最大限活用した。青春18切符を一夏に2冊消化したりして、ある意味で黄金時代。

画像16JR東北本線。

画像17JR奥羽本線大鰐温泉駅。

画像18鹿島鉄道浜駅。

画像19茨城県霞ヶ浦。

画像20秋田県田沢湖

冬休みには事務研修はないけれど、官公庁一斉の休暇で、12月29日から1月3日まで休み。それで、12月29日になると私はまた、青春18切符で旅行に出たりした。西日本は奈良に住んでいるときにある程度出かけていたので、奈良からは遠かった東北エリアをあちこち旅行した。まだ東北本線や羽越本線が通勤電車タイプの701系ではなく、ED75型電気機関車の牽引する50系客車や12系客車で、がら空きのボックスシートでゆっくりくつろいで旅行が出来た。

私が学校事務に転勤希望を出した、という話を聞いたある先輩職員は「そんなこと歳を取ってからでも出来る」と言った。だが私の判断は違った。若いからこそ学校事務職について、まともな生活を送りたいのだ、と。そしてその判断は、後に正しかったということになる。なぜなら、今、神奈川県立学校の事務職員は、事務長を除いて、人材派遣業者から派遣されてくる民間の派遣社員に置き換えられてしまったからだ。

やりたいことは、やれる時に最大限やった方がいい。そんな発想は2018年、51歳になった今でもある。というより、当時以上にそう思っているかもしれない。

画像21秋田県JR奥羽本線。

画像22長良川鉄道北濃駅。

画像23岐阜県郡上市郡上八幡。

画像24JR羽越本線。

画像25岩手県大船渡市三陸町吉浜、旧吉浜郵便局。

画像26岩手県遠野市。

画像27岩手県遠野市。

画像28岩手県遠野市。

画像29岩手県遠野市。この風景は遠野のホップ畑。ホップの生産量日本一は遠野市なのだ。冬の間はホップの蔓をからめる棒と針金だけが並んでいて、足下は雪で白かった。

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