飛行機と長男

 「行きたくないな」

 旅の前夜に感じる言い表しようのないワクワク感と、同時に降ってくる浮遊感のある心配が嫌いだ。

 前に台湾に最後に行ったのが4年前だから、もう10年も前くらいから、僕が旅に出ようと思った時に湧いてくるこの感情と向き合うたびに、その言葉は呪文のように口から出てくる。

 「行きたくないな」と口にすると、これから起こるかもしれない(そしてそれはほとんど、と言って良いくらい起きない)まるで、午後から天気の崩れる朝に、折りたたみ傘を玄関に忘れた程度の小さなトラブルのバリューパックを、時間をかけてわざわざ探しに行くような感じがすごくするのを和らげてくれるので、もう出発前夜なんて何度「行きたくないな」と言っているかわからない。

 まあ、本当に何もトラブルなんて無くて、危ない目にもあった事も無いし、本当はそんな事など、ひとたび地元の空港に足が向かい始めれば全く思わなくなるのだけれど、なんだか今思い返すと飛行機が苦手な割には、ずいぶんと飛行機に乗る人生を送ってきた。

 いわゆる母の実家があるタイプの家族だったので、幼い頃のお盆休みは当然親の里帰りに同行する形になり、そこは程よく都心から離れた飛行機でないといけない土地だったので物心ついた時から次男である僕の役目は一つだった。母はカウンターや窓口で手続きをしなくてはならなかったし、兄は切符を持ったり、時刻表を確認したり、弁当を買いに走ったりしていたから、幼い僕の唯一の残されたポジションといえば、肩という肩に、腕という腕にこれでもかとリュックやバッグやお土産物やお弁当の袋を抱える「運び屋」だった。

 その頃の飛行機の記憶が今でもおぼろげな事を思うと、どうやら本当に昔から飛行機が苦手だった事は間違いなさそうだ。中学生になり、流行りの帰国子女になった僕は、母の田舎に帰省するトータルの時間よりも長い時間を空の上で過ごすという拷問を、一年に二回は経験しなければならなくなるのだ。

 でも、小学生の頃、僕は夏休みになるたびにちょっとした優越感を感じていた。

 本来なら学校の友達や近所の仲間と知り合い、楽しい夏の思い出を作ったりする時間のすべてが、僕らは帰省に使われていたので、母親が嫌いな人から逃れ、実家に逃げ込む口実に付き合わされるのは兄弟としてとっても自然な事だった。

 僕は飛行機は大嫌いだったけど、子どもが飛行機に乗る生活にはとても満足していた。なぜなら、空港や機内という大人の世界で、こどもはとにかくおいしい思いができるからだった。背のびをしている子どもが好きな大人はとても多くて、僕たちは駅や空港に行けば「お母さんを助けてあげてね」「たくさん荷物を持ってて偉いね」と褒められ、機内ではがんばった子どもの証とも言える搭乗記念のおもちゃがプレゼントされた。たまに家族で3列の席が予約できずに、うっかりスーツ姿の会社員と隣同士に座ろうものなら「僕は母のボディーガードで乗ってます」といった雰囲気を醸し出しながら、いつもより3倍くらいキリリとした表情で席についていたと思う。

 母は僕が生まれた時にはもう父とは別居していたから、僕は、3年ほど僕より早く生まれてしまった兄といつでも二人三脚で過ごしてきた。末っ子なんて気楽だ、といつも思っていて、畏敬の念からか長男、長女の友人が多い気がする。生まれる順番は自分で決められないから、初めてに期待するものの大きさは、残念だけど長男ではないのでわからない。

 久しぶりに会った長い付き合いの友人には、歳の離れた弟と妹がいて、彼はいつも小言を言っては、時にやらかしてしまう幼い二人に心を痛める優しい長男で、多分、今もそれは変わらない。ぼんやりと車の助手席に乗って外を眺めていると、大きな結婚式場の脇を通り過ぎた。ほろ酔いで仲間同士、同じ引き出物の大きな紙袋をぶら下げながら、まだ興奮が冷めやらないのか「次はどこに行こうか」と右往左往する集団によく遭遇する道だった。

 彼の弟が高校を卒業する時、仲間うちのでやらかした時、酔って動けなくなり一緒に車で迎えに行った事があった。

 「今思えば、その時の顔をスマホで撮って見せてやりたかったよ」と意地悪で言ってみたところ、彼は笑ってこう返してきた。

 「人殺しってのがどんな顔をしているのか見せたかったんだろ?」

 心を見透かされた気がしてスーッと冷めた。その時の、まさに鬼の形相の彼をなだめるのに、どれだけ苦心したと思っているんだ。一発やそこら殴られる覚悟で「お前だって卒業式の謝恩会の後、パブでやらかしておんぶして帰ったのはこの僕だ。しかもその夜の寮の点呼も代弁してやったのを忘れるなよ」と大声を出したら、やっと鬼から人に戻ったのを思い出した。

 きっとそんな心配は父親がするのだ、と今でも思う。

 彼はいつも損をしていた。僕の兄もだ。

 「結婚したら、全然連絡なんてしてこないんだな」急に彼が独り言をつぶやく。

 「仲良くやってるんでしょ。弟くんも、あんな寒い国で家族と一緒に暮らしていこうなんて、なかなかタフな奴じゃないか」

 「全然暮らしやすいとかさ、いい国だよ、とか昔、一言も話したつもりはないんだけどな。なにをどう捉えたんだかさっぱりだ」

 「兄貴と一緒のところに住んでみたかったんじゃない?」

 彼の弟は、僕らが学生時代を過ごした街から20キロも離れていない異国のど田舎に住みながら、パソコンひとつで家計を支える父親になっていた。

 「しかし遠いよね。僕はもう一生分の飛行機に乗ったから、一緒に会いに行こうって言われても、多分付き合わないよ」

 「俺もだ。まあ、子どもや嫁さんや何やらで、なにかにつけて帰ってきているみたいだから、わざわざこっちから出向くつもりもないんだけどな」

 それにしたって、帰って来ても連絡無いな、とちょっと困ったように笑っていた彼の表情は、相変わらずの長男の優しい顔だった。

 ポンポンポーン、と何十年も変わらない搭乗口を告げるアナウンスが流れる。今日に限っていつもの保安検査口から、えらく離れた寂しい所まで連れて行かれずに済むようだ。左に曲がろうとするのを止めて、目の前の誰も座っていないソファに座り、これからいよいよ飛び立たとうと静かにその時を待つ飛行機を眺めた。

 「行きたくないな」

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