連続ピストル射殺事件の論考「まなざしの地獄」見田宗介著を読んでおっさんが思ったことなど。

安部元首相の射殺事件で世間がざわついている、こんな時だからこそ?積ん読していた「まなざしの地獄」を読むことにする。

永山則夫は1968年に連続ピストル射殺事件を起こした。当時19歳。北海道網走市呼人番外地産まれ。8人兄弟の第7子(四男)酒飲みの父親はほとんど家に帰らず、母親も一時期子供を置いて家出をするような酷い環境で育つ。北海道から都会でのきらびやかな生活を夢見て集団就職で東京へ。

まじめに働くも雇い主との些細な口論で職を転々とする。ただ、それは素行が悪いとかではなく、田舎から出てきた流れ者の若者ゆえの社会性の希薄さだった。

決定的だったのは郷里の母親から送ってもらった「戸籍謄本」。そこに書いてあった本籍地が北海道網走市呼人番外地であった為、網走刑務所産まれであると勘違いしたこと。(1965年に網走刑務所が舞台の「網走番外地」という映画が公開されている)

その後、永山則夫は履歴書が必要になるような仕事は避けるようになる。刑務所産まれであると人に蔑まされることを恐れたからだ。

貧困を抜け出して、都会で人並みの暮らしをしたい。そんなささいな夢をたった一つの、自分が刑務所産まれであるという勘違いが粉々にした。

その〈歴史〉が戸籍謄本や履歴書として一生つきまとうのだ。どんなに身なりを綺麗に整えても、履歴書に嘘はつけない。底辺の産まれであり、都会の裕福な人々から蔑まされる、そんな存在から抜け出せないという思考の地獄。

著者の見田宗介はこれを「まなざしの地獄」と呼んでいる。人々が他者を判断するまなざし、そのまなざしがその人本来の性格や気質に注がれるのではなく、経歴や肩書きであるということ。その〈歴史〉からは抜け出せない。これこそが地獄なのだ。

現代を生きる僕達にとっても「まなざしの地獄」は続いている。どんなに民主的で平等な社会だと歌っても、履歴書に書いてある学歴で勤められる企業は限られる。新卒一括採用など転職者が受け入れずらい土壌も続いている。過去に犯罪歴があったら?もちろんNOだ。

僕達はそんな「まなざしの地獄」に落ちないように、必死にレールの上を走っている。ところで、見田宗介は人がつける職業について面白い区別をする「履歴書のいる労働者(ホワイト企業)「自営業」「履歴書のいらない労働者(ブラック企業)」だ。

現代社会では一部のインフエンサーが「好きなことで生きていこう」などど風潮している。労働者ではなくプチ企業家になればいいと。インターネット環境がこれだけ充実しているのだから、利用しつつ小さな規模で企業しようというわけだ。

なるほど、と思うけれども実際には全体の構造は変わっていない。むしろ(客観的に優秀な)履歴書がない者は「自営業」をするしか階級を上げる方法はなく、それが出来なければ「履歴書のいらない労働者」(底辺の仕事と一部の人が蔑む)になるしかないのである。

資本主義社会とは人をデータベース化する、その方が効率的だからだ。履歴書もその発想だ。その管理社会のなかで一定の基準を満たせなかったものは、生涯「まなざしの地獄」のなかで生きることになる。

レールからこぼれ落ちた者はもとには戻れないのだ。

永山則夫はこの地獄のなかで、社会との接点を失い、自己のアイデンティティーも失っていく。社会的に無意味な存在。広い海に寄る辺なく漂う小舟。誰からも承認されない孤独。その果てに日本を脱出する海外密航の妄想を募らせ。米軍基地で盗んだ拳銃を懐にふらふらと町をさ迷い歩き、偶然忍び込んだ高級ホテルの中庭で、呼び止められた警備員を射殺することになるのだった。

この論考を読んで思うのはこの「まなざしの地獄」に抗うためにはどうすればいいのか?ということだ。そうでなければ社会からこぼれ落ちたもの達の怨念、その牙が人々に帰ってくることは避けられないだろう。

人々にセカンドチャンスが与えられる社会、学歴で区別されない社会、孤独な人に手が差しのべられる社会など本当に訪れるだろうか?結局のところそれは「〈あなた〉や〈わたし〉のまなざし」にかかっている。難しいけれども、今ある現実に抗い、少しでも理想の社会を目指すしかない。

薄暗い社会の隅で生きる孤独な人々に暖かいまなざしが注がれることを祈って。

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