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2019年5月 日本災害情報学会20周年記念シンポジウム「防災における“住民の主体性”」講演原稿

 やらなくてはいけない複数の仕事の合間にPCを整理していたら(仕事をしろ!)、4年前の講演の原稿が出てきました。読み返してみると「もう少し違うことも言えたな」と思う部分や「説明が全然足りていないな」と感じる部分もありますが、基本的に考え方は大きく変わってはいないので備忘録的に載せておきたいと思います。(ちなみに実際に話した時は、この原稿をそのまま読むのではなく、ところどころ端折ったり付け加えたりしているはずです)

講演の内容よりジャージ姿の写真が知り合いにはウケた

『新聞社をやめてから考えた2、3のこと』


自己紹介

 フリーランスのライターをしています、飯田和樹といいます。本日は、このような場でお話をする機会をいただきまして、誠にありがとうございます。人前で話すのに慣れていませんので、お聞き苦しい部分ばかりだと思いますが、ご了承ください。

 まず、「こいつ誰だ?」と思われている方も大勢いらっしゃると思うので、簡単に自己紹介をさせていただきます。

 私は今年43歳になります。いわゆるロスジェネ世代です。同志社大学を1999年3月に卒業しましたが、就職先がなく、フリーターになりました。それから、なんとかかんとか業界紙に潜り込み、4年ほどそこで勤めたあと、毎日新聞に移りました。

 毎日新聞では、名古屋や三重で警察や行政を担当し、遊軍記者をやってから、東京社会部に来ました。名古屋時代から伊勢湾台風に関する取材などをしていましたが、本格的に防災分野を取材するようになったのは、東京社会部で気象庁担当になってからです。その後、いったん担当を外れたのですが、しばらくすると東京科学環境部というところに移って、今度は科学の分野から、特に地震が主でしたが、再び防災分野を取材することになります。

 ちなみに、社会部の担当時代に「東日本大震災」がありました。気象庁が「特別警報」を導入する時も担当として記事を書きました。そして科学環境部時代には、「熊本地震」などを取材しました。「マニア」にとっては関心の高い「南海トラフの臨時情報など」についても、科学環境部時代に取材しました。毎日新聞時代に書いた記事については、お配りした資料に少しつけていますので、「私のつたない話を聞くのがつらい…」方は、それを読んで時間をつぶしていただければ、幸いです。

 で、毎日新聞で防災分野の取材をしていたのですが、まあ、いろいろあって、2018年3月で毎日新聞を退職し、フリーランスになりました。今は、ヤフーさんがやっている「THE PAGE」というネットメディアで記事を書いたり、外部のライターさんの原稿を見たりしながら、時折、別の仕事も受けて…という感じでそれはもう細々とやっております。

 フリーランスになって、じゃあ、どんな記事を書いたのかというと、これも、お配りした資料にございます。中には、今回のシンポジウムのテーマでもある、中央防災会議の「住民の主体性」の報告書の時の記事もあります。これについては、あとでちょっと説明したいと思います。

 さて、自己紹介はこのへんにします。私は研究者でもなく、主要メディアにいるわけでもありません。そんな立場で、この1年間に考えたことなどについて、少しお話しできれば、と思います。

西日本豪雨で考えたこと

 今回のシンポジウムのテーマは「住民の主体性」ですね。このワードは、みなさんもご承知の通り、昨年の西日本豪雨を受けて、あらためて出てきたものです。私は、西日本豪雨の翌週だったと思うのですが、さきほどごあいさつされた田中淳先生に会いに行きました。

 取材といえば取材なのですが、簡単に言うと「今回のことで、私はあらためて情報では人は救えないんじゃないのか、と思ってしまいました。先生はどう思います?」みたいなことを尋ねに行ったんですね。これまで、新聞記者として、田中先生が、もちろん田中先生だけじゃなくて、この学会に所属している多くの先生方が情報の改善について、「ああでもないこうでもない」と議論し、より良いものにしていこうと頑張ってこられたところを見てきたわけです。でも、こんなことになってしまった。それなのに、災害発生後、早々に「情報のあり方が問題だ」みたいな話が出てきて、それが、なんといえばいいのでしょうか。まあ、簡単に言えば腹立たしいな、と思ったわけです。

 ただ、ちょっと冷静になって考えてみると、この情報って、何だろうとも思うようになりました。西日本豪雨の時、気象庁は、良く知られているように事前に「異例の会見」を行いました。でも、私はその時、すでに新聞社の記者でなくなっていたので、その会見が行われることを知ることはできませんでした。たまたま、SNSで、気象庁記者クラブ所属の大先輩がつぶやいた内容を見て「いつもと違うんだ」ということを知りましたが、そこまで深刻な事態であると受け止めることができませんでした。この時のことについては、個人的にたくさん反省する部分があります。

 でも、ここで言いたいのは「自分が反省している」ということではありません。私を含め、災害情報学会に所属しているような人はある意味特殊な人たちで、多くの人は今の災害情報を「正しく読み解くことができる」とか「できない」というより前に、災害情報に触れないのです。

 もちろん、情報がわかりやすく整理されることは必要だろうと思っていますが、それが特効薬になることはないだろうと思っています。

「情報をわかりやすくする、という方向性とはちょっと別のアプローチが必要だ」

 新聞記者だった時からなんとなくそう思っていましたが、自分が情報を手に入れにくい場所にいったことで、改めて、そう考えるようになったわけです。これが、新聞記者をやめてから考えたことの1つめです。その後、中央防災会議の話などがあり、住民の主体性という話が出てきたので、私は、レベル化うんぬんより、別のアプローチにつながりうるこっちのほうが大きなニュースだろう、と思って、お配りしたような記事を書きました。

 新聞記者だったら、この内容をこれだけの分量で書くことはできなかったな、と思います。実際、ある知り合いの記者は、このとき「住民の主体性うんぬんの部分をデスクに削られましたー」といっていましたから。

「シン・ゴジラ」の平泉成のセリフ

 さて、もう一つ、西日本豪雨に関連して、考えたことがあります。みなさん、映画「シン・ゴジラ」はごらんになったでしょうか?

 たぶん、この学会にいらっしゃる方はこの映画が好きな人が多いと思うのですが、いかがでしょう? そんなことないですか? 

 私もそれなりに好きで、省庁の縦割りの様子なんかおもしろいなあと思いながら、何度か見ましたが、いつも同じところでハッとしてしまいます。それは、平泉成が演じる内閣総理大臣臨時代理が「避難とは住民に生活を根こそぎ捨てさせることだ」とつぶやくところです。

 新聞記者時代、心からだったり、心からではなかったりしましたが、「こういうことになる可能性があったのに、避難しないっていうのはどうなんや?」と非難めいたことを口にしたことがあります。でも、平泉成のこのセリフを聞くたびに、自分が「避難」という言葉をとても軽く使っていたな、と感じるのです。

 「避難した人が元の場所に戻れなくなる可能性」にまでちゃんと思いを至らせた上で、この言葉を使っているんだろうか? 「念のための避難」という気持ちが強すぎたのではないか? これは、みなさんにというより、自分に問うているのですが、西日本豪雨の後にしばらくしてまたこの映画を見た時、やはり、そう思ったんですね。逃げたら、二度と家に戻れないかもしれない。そのことを意識した上で「なんで逃げないんだ」って言っていたのか。いつも反省します。言葉は変ですが、「安心して逃げられるしくみ、逃げても生活を根こそぎ捨てなくても済むしくみをつくる」ことが必要なのかな、というようなことを考えました。

 安心して逃げられるしくみって何でしょうね。それはたとえば「避難所生活をもっとましなものにすること」であったり、「被災者生活再建支援制度の充実」であったりするのかなと思いますが、そのようなお話はとりあえずご専門の方におまかせして、今日はもう少し、違ったことを言いたいと思います。

私たちは自分の行動を主体的に決められるのか?

 話は若干変わりますが、西日本豪雨の少し前に、大阪北部の地震(最大震度6弱)がありました。あの時、大勢の人々が帰宅困難者となったのをみなさん覚えておられると思います。

地震発生は午前7時58分

 地震があっても、みなさん会社に行く、学校に行く。今、フリーランスになった私が同じ状況にあれば、今、私は週に5日、ヤフーさんのオフィスに通って仕事をさせてもらっているんですが、同じ状況だったら、その日はたぶん行きません。1日分の収入は減ってしまうかもしれませんが、それよりも身重の妻といっしょにいたほうがいいかな…と判断すると思います。

 でも、前職時代であればどうでしょう? これは行きますね。当然、行きます。家族には「ごめんなさい」と告げて行きます。組織の一員として自分の役割を果たさなければいけないから行く。会社が来いといっているから行く。報道という仕事だから当然だ、という部分もそれなりにあるとは思いますが、たぶんそれだけじゃないと思うんです。

 私たちの多くは、実は「自分で自分の行動を主体的に決める立場にないのではないか」と思うのです。

 考えてみれば、これまで生きてきて、日々の自分の行動を主体的に判断できたことって案外少ないな、という気がします。普段、主体的に自らの行動を決められないのに、いざというときだけ主体的に動けといっても、土台無理な話ではないでしょうか?

 「住民の主体性」に必要なのは、「人々がより主体的に行動できる社会をつくること」ではないのか、と思います。

防災と民主主義

 すみません。青臭いことを言いますが、もう少しだけおつきあいください。貧困、差別、働き方など、今の世の中にあるさまざまな社会問題。こうした問題は、避難の問題とは関係がないことでしょうか? 少子高齢化や過疎化などが避難のありかたを考えるうえでとても重要な問題であるのと同じように、こうした問題の一つ一つも避難を考えるうえでとても大切な問題なのではないでしょうか。

 一人ひとりを大切にして、一人ひとりが生きやすい社会をつくっていくことが、住民が主体性を持つことにつながるのではないでしょうか。

 アメリカセンタージャパンのホームページに「民主主義の原則」を記したものがあります。

ジャーナリズムの役割は民主主義の成熟に寄与すること

 例えば、ここには「民主主義国はすべて、多数派の意思を尊重する一方で、個人および少数派集団の基本的な権利を熱心に擁護する」とか「民主主義国は、全権が集中する中央政府を警戒し、政府機能を地方や地域に分散させる。それは、地域レベルの政府・自治体が、市民にとって可能な限り身近で、対応が迅速でなければならないことを理解しているからである」などと書いてあるのですが、今の日本で、ここに書かれているようなことが実現されているでしょうか?

 防災について考えるというのは、「民主主義」というものを真剣に考えることなのではないのか。自分への大きなブーメランになりますが、ジャーナリズムは民主主義の成熟に寄与しなければならない。それは防災に関する報道でも同じであるはず、などと考えています。

 最後に、先日、ネットで見つけた記事を紹介して、まとめとさせてください。もしかしたらご覧になられた方もいるかもしれませんが、「BuzzFeed」というメディアの記事で、がん患者にどのように情報を伝えるのか、ということについて、がん研究者で医師の方が書いた記事です。お配りした資料にあると思いますので、お時間があるときにでも、この記事を、災害情報や災害に遭遇するかもしれない人々のことを言っている、と置き換えながら読んでみてください。

 まったく、まとまらない話で、本当に「2つ、3つのこと」だったかどうかはよくわかりませんが、これで終わりにしたいと思います。みなさん、今後ともご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくおねがいします。ご清聴ありがとうございました。

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