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沈黙

 小学校五年の秋から不登校になり、六年の夏休み明けから登校を再開した。だからそのあいだの一年間、俺は学ぶべきことを十分に学べていなくて、それによって以降の学習でもたびたび苦労を味わうことになった気がする。特に小学六年から始まる日本史については、その導入部分を欠席してしまっているせいかどうしても苦手意識が抜けない。だけどそんななかでも強く印象に残っていることがひとつだけあって、それが「踏み絵」だった。
 人間の記憶は曖昧なものだから俺も思い違いをしているんだろうけど、俺はそれを不登校のまえに知ったような気がする。五年生のときに習ったような気がするのだ。担任の先生がたまたま雑談のなかで紹介したのかもしれない。資料集か何かで踏み絵の写真を見たときの印象をはっきりと覚えている。それは”絵”と呼ぶにはあまりに立体的で、どちらかといえば彫刻のように見えた。アルフォートというチョコレート菓子によく似ている。そこに浮かび上がるキリスト像は、何度も踏みしめられたことによって輪郭を失ってぼやけていた。そのツルツルに摩耗した金属の質感にこそリアリティがあった。俺はその写真を見たとき、まるで自分がその前に立ち尽くしているような気持ちになっていた。迫害を逃れるために信じるものを裏切るかどうか、その逆境に置かれている自分の困惑が生々しく想像できた。踏むべきか踏まざるべきか。ふたつのものに引き裂かれて身動きのとれない自分。俺はすでにどこかでそれに似たものを体験していたのかもしれない。歴史上の人物のなかで俺が初めて自己を投影できた存在、それが隠れ切支丹だった。

 不登校のあいだ、少しでも何か勉強らしいことをしなくていけないと思って読書を始めることにした。その頃はマンガくらいしか趣味がなかったから活字を読む習慣もなかった。だったらせめて子ども向けに書かれた小説とか、赤川次郎とか星新一とか?まずは読書そのものに苦手意識が起こらないような易しいものを選べばよかったものを、小学生の俺が選んだのは遠藤周作「沈黙」だった。それを選んだ理由はもちろん、隠れ切支丹と踏み絵について書かれたものだと知っていたからだ。母親の本棚にそれを見つけた。学校に行かないでいる俺の気分は、いよいよ隠れ切支丹と重なっていたのかもしれない。今それを読むことに大きな意味があると思った。そしてあわよくば、神が与えうるような救済を俺にも授けてほしかった。
 しかし、小学五年生の俺にはやはり難しすぎたのだろうか。最後まで読み終わることなく途中で諦めてしまった。内容が難しいというよりも、ひたすら重苦しくて淡々としていたような気がする。読みながら何度も眠ってしまった。文庫本で半分ほどは読んだ気もするけど、肝心の踏み絵の場面まで到達することができたかどうかすらも思い出せない。昭和の印刷物の独特なフォントと行間の狭さ、焼けてくすんだ紙の色、その古めかしさだけが手の中に残っている。

 だからこれは俺にとってひとつのリベンジだった。「沈黙」を最後まで読むこと。その念願が2024年の夏、ついに達成された。そしてその感想を一言で言えば、「まぁしかたない」。小学生の俺がこれを読めなかったのはまぁしかたない。
 まず、語り手の司祭・ロドリゴがポルトガル人であることが感情移入を妨げただろうと思う。アフリカとインドを経由する航海の過酷さ、命をかけて布教することへの切実さ、江戸時代の長崎での生活、何もかもが小学生の実感から遠かった。かといって、現れては消える弱者・キチジローをもう一人の主人公として発見するほどの読書技術も備わっていないし。それに、そもそもこの物語には主人公と呼べるような登場人物はいないのだ。 神を求める人間の欲望が、その境遇や時代に翻弄される群像こそが主人公なのだから。
 そして、37歳の俺が読んだ「沈黙」において最も共感を覚えたのは、切支丹を弾圧する側である奉行・イノウエであった。彼は一度キリスト教の洗礼を受けてなお、日本にその信仰は根付かないと結論づけた。その挫折にこそ強く惹かれてしまうのだ。しいて言えばその挫折への共感こそが、今回のリベンジによって得られた一番の成果かもしれない。11歳かそこらの俺にだって、誰が正義か悪かってそんな単純な話でもないことはきっとわかっていたはずだ。だけど答えは欲しかった。その場しのぎの慰めでもかまわないから、何か自分を支えてくれる言葉が欲しかった。踏むべきか踏まざるべきか、自分で決める自信がまだなかった。その点で俺はまだロドリゴだったのだ。

 はたして、遠藤周作「沈黙」が名作かどうかというとよくわからないのが正直なところだ。あらためて読んでも冗長に感じる部分はあるし、文体についてはものたりないところがはっきりとある。このリベンジによって不登校の自分が報われるのではないかという期待もあったけれど、たいした解放感もない。読んでいなかった本を一冊読み終えただけのことだ。
 あれから数えてもう、小学校を四回卒業できるくらいの時間が経った。今の自分とどれだけ違うかわからないが、幼い自分がこの小説に挑戦したことは認めてあげたい。ここに何かあるという直感はまったくの検討はずれではなかったと、それくらいのことは伝えてもいいだろう。踏むべきか踏まざるべきか、答えはもう決まっている。

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