一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり
5年前、心身とも疲れ果てていた時に、友人と一緒にあるお寺を目指して、ロープウェイを使わず、山を登りました。登山道は、緩やかな道と険しい道があり、どちらを進むのかは自分次第。でも、私はすべて険しい道を、なぜか選んで登っていました。
そこで友人が「いつも自分で険しい人生の選択をしてるんよ。それがみえちゃんや」
そうなんですよね。いつも物事を選択するとき、チャレンジャーな私は「険しい道」を選びます。お寺がある山頂までの道中、友人と、いろんな話をしながら、その時々に見える景色が照らし合わされる。悩んで悩んで、もうこの仕事をやめよう・・・と思いながら歩いた道。
友人が「やめたくないから、悩んで悩んで泣いてるんやろ?なんでやめることを考えるの?」そんな言葉にハッとしたとき、目に飛び込んできたのが「一隅を照らす」の石碑でした。(延暦寺は一隅を照らそうでした)
・・・一隅を照らす。これ則ち国宝なり・・・
一隅とは、片すみという意味。 天台宗の開祖、最澄の言葉で、「一人ひとりが自分のいる場所で、自らが光となり周りを照らしていくことこそ、私たちの本来の役目であり、それが積み重なることで世の中がつくられる」という意味があるそうです。
大きく世界を変えようとするのではなく、まず目の前のこと、今の自分にできることを一生懸命やる。そうやって一人一人が灯す小さな光がやがて大きな光となる。
この言葉に救われました。そして「一隅を照らす人で在りたい」と。
先日、主人と比叡山、延暦寺へ行ったときのこと。ケーブルカー、ロープウェイ、バスを乗り継ぎ延暦寺へ。「仏教の母山」というだけあって「簡単には辿り着けないんやね」って主人と笑いながら総本堂に着いたとき、目に入ったのが「一隅を照らす」石碑でした。
今回も多忙な毎日で、心も体もメンテナンスが必要だな。と感じていて、とにかく緑の中にすっぽりと包まれたいと思い比叡山へ。(主人が、たまたま延暦寺に行こう!と誘ってくれました。)
5年前の気持ちとは、まったくちがっていて、今の私は、自分のことを知り、すべて受け入れ、自分のことが大好きになり、今の自分の立ち位置で自分ができることを心軽やかにやっている。
人生の岐路のとき、たまたまかもしれないけれど同じ言葉に背中を押され不思議な思いです。
あれから、ただ「一隅を照らす人で在りたい」そう思いながら自分自身と向き合いました。そして、大切な人たちと笑顔で私を生きる人生を歩みたいと思っています。
人は死ぬまで、学びとチャレンジの繰り返しの中で自分自身と向き合うことが私を生きることなんじゃないかと、人生も半世紀を過ぎつくづく思います。
歴史ある場所には、世の中が変わろうとも、この地は今も昔も同じ。私はいつも、そんな場所で「地に足を付ける」という確認をしているのかもしれません。
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