碁盤の端をぶちこわそう 「囲棋」の構造おぼえがき4
どうも囲碁アートの関です!
第3回では、でも人間という存在には囲碁をそのまま応用できないねって考えました。
ついに今回から、囲碁で全てを表現するにはどうしたらよいか、考えてみます。
囲碁にはさまざまな制約があり、それがあることでゲームが成り立っています。
わたしたちも様々に制約を受けながら生きている、ということができるかも知れません。
しかし、囲碁の制約と人間の制約が、現状そこまで重なっていないことがズレの原因になっているのではないか。
囲碁の捉え方をちょっと変えて、その前提を揺るがしてみましょう。
まずは最も見やすい所に注目してみます。
目の前にある「空間」です。
これは碁盤です。
なんと!!
碁盤には端の線があります!!
その外に出ていくことができません。
19×19の標準的な盤ならば、石を打てる場所は361点。
この361が世界の全てであり、その中の振る舞いで評価され、勝ち負けが決まることになります。
逆に言えば、ゲームの終わり(終局)が来るためには、空間には限りが必要です。
「もうこれ以上陣地が広がらない」というときが、囲碁の終局。
際限なく空間があると、無限に陣地を作っていけるので、勝負がつかなくなっちゃうのです。
われわれの生きている状況に近づけて考えてみましょう。
いま自分がいる空間には、限りがあるだろうか。
わかりません。
少なくとも碁盤の端のように、目に見える形で限界があるものではありません。
私がある方向、例えば真上に向けて直線運動をずっとしていくとして、宇宙の果てにブチ当たるだろうか?
わかりませんが、その時は来ないような気もしますね。
ある限界があって、その外には何もない・・・ということは、少なくとも人間が認識できる範囲にはなさそうです。
そういう意味で、19路盤における空間は、我々の空間とかなり違っています。
ではどうすればよいか。
そう、碁盤の端をなくします。
まず「際限ない広さの囲碁」があるのだ、ということにしてみましょう。
それは終わりが見えないので、ゲームとしては成り立たない囲碁です。
「ゲームとしての囲碁」は、そこに新たに「盤端」を創設することで、一部を切り取ったもの
という姿を考えても、決して不合理ではありません。
われわれが生きている状況は、19路のゲームとしての囲碁だけというよりも、その外まで含めた囲碁のほうにより近いように思われます。
ひとまず、われわれにはいちばん外の、最果ての端は見えない。
その端があったとしても、それによって生まれる「勝負」はわれわれに関係ない。そんな空間です。
生きている中で、さまざまな課題に直面します。
その課題たちはそれぞれ大きさが違い、一つ一つに成否があり、勝敗を考えることもできます。
その課題ひとつにつき一面、有限の碁盤として区切られ、無数に同時に持っている・・・
こういう形ならばある程度、囲碁と人間を重ねることができます。
例えば今の私は、囲碁アート作りと、日々のお仕事と、例の件と、みんはやのレートを上げること・・・など、複数の課題を同時進行で持っています。多分もっとあるでしょう。
無際限の盤(わたし全体)の中に、たくさんの有限の囲碁を抱えている、という風に考えることができます。
そしてその全体ひっくるめて、有限になりきってない部分も含めて、わたしです。
有限の囲碁の考え方で無際限の盤を判断することはできませんし、逆に無際限の盤で有限の囲碁を考えても、勝てるかどうか分からないでしょう。
どのレベルの囲碁をどの分野に応用するのか?という判断が求められるわけです。
逆にそれさえクリアできれば、
「囲碁で全てを表現する」
ということへの、有力な足場になる考えなのではないか。
実は最近は、この妄想理論をもとに、自分の囲碁アートを捉えることにしています。
次回はその考え方をお話しさせてください!
記事は以上です!
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