人生は囲碁に例えられない 「囲棋」の構造おぼえがき3
どうも囲碁アートの関です!
※本編無料でお読みになれます
第1回では、囲碁の構造が世界をあらわしているかもよっていうこと
第2回では、実際に囲碁を応用してビジネスについて考えてみました
そんな最強ツールでもあっちゃう囲碁ですが
どうしても例えてはいけないものがあるような気がします。
それはたとえば、
「人そのもの」
です。
囲碁で例える、というのはある種の問題設定を伴います。
前回の「ビジネス」なら、
利益を最大化するには?
ですとか
総合評価の高い企業にするには?
ということと
囲碁での損得・勝ち負けを重ね合わせることで、何かが見えてきたわけです。
例えばこの場面(黒番)
左上の〇の黒を黒1で助ける方が、×を助けるよりも数が多いですし、陣地もお得です。
これを例えるときに
「下の事業を諦める代わりに、本腰を入れたい左上に注力する」
ならいいと思いますが、
石を人に見立てて価値を値踏みする
というのはまずそうですね。
上の一局が、最後までいった形です。
黒は24目、白は17目
黒が7目勝ちですが・・・
「黒社よりも白社のほうが、7目ぶん多く利益を上げた」
なら、きわめてまっとうな感じですが
「黒の人生のほうが、白の人生よりも7つぶん優れている」
はまずそうです。
囲碁は勝ちと負けがハッキリとあり、それも数字で結果があらわされます。
過程がさまざまにあるとはいえ、何かを白黒つけるものではあります。
ある基準を当てはめて、定量化可能な形で優劣を判断する、というのが全く適さないものを人間は持っています。
それは「尊厳」とでもいうべきでしょうか。
無限の価値を持っているか、価値という形で判断できないものです。
たとえば、私は囲碁のプロを目指していたのですが、なれませんでした
(年齢制限が22歳までですし、それより前に限界を感じて諦めました)
(参考)
では、私の囲碁人生は負けだった、と人から言われたら、どうしましょう。
・・・
「いや、そんなん言われる筋合いなくね!?」
というのが正しそうですね。
(幸いそんな人には巡り合っておりません)
ここで
「いや、囲碁アート創始したからむしろ勝ちでしょ」
という反撃も可能なのですが、
そうなると勝ち・負けの土俵に乗った感じがします。
そういうことではない。そもそも、勝ち負けをつけてはいけないところです。
それくらいのつもりでプロを目指す、という心の持ち方はあり得ると思いますし、
「プロ棋士になる」ということに絞って、そういう枠として成否を判断しようってことならば、十分に囲碁に例えてよいと思います。
プロになるための最善手はどれか、ということ。
しかし、これ以上踏み込んではならない判断はあるわけです。
こちらの記事で松澤さんの囲碁から人となりを考えてみる、ということをしましたが、これはセーフだと思います。
ここの部分
人間が囲碁に向き合うときににじみ出るもの
どのような目線でどのように感じているか、を推理したということで、
ここの部分
囲碁のゲーム性そのものを人間の大事な部分に当てはめると、危険があるのではないか、ということです。
(ティータイム囲碁体験
月一回ほど、どこかの曜日に行います。
今月は7月30日(日)開催です!)
囲碁に限らず、何かで何かを語るときに、不当に基準を当てはめてしまうことには注意しないといけないと思います。
書いてて「めっちゃ当たり前だよなあ」とも思いつつ、これを書いたのは私なりの理由がありまして
「囲碁で全てを表現する」
といった手前、今のところ表現できないものが明らかになったわけです。
諦めなければならないのか? 囲碁で人生は語れないのか?
そうだ!
囲碁を変えればいいんだ!!
次回、囲碁を変えます。
記事は以上です!
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