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知ることの楽しさ、知らないことの幸せ。

私たちの生活環境には、情報が溢れている。新聞・テレビは誰もが眼にし、世界中のことが瞬時にわかる。それでも物足りないのか、ネットには、さらに突っ込んだ内容、幅広い情報が流されている。

人びとは知りたがる。知ることを楽しんでいる。

大っぴらには出てこない情報も、ネットなら流すことができる。そこには、みんなの知りたい情報があり、いつでもアクセスできる。朝から晩までと言わず、朝から朝までネットを覗いている人もいる。

かと思えば、このネット時代に取り残されている人たちも存在する。高齢者やデジタル機器の苦手な人である。

何やら世間が騒いでいるのに、知ることができない。知りたいのに、情報が入手できない。「情報難民」といったところか。

確かに、知らないことを知るのは刺激的であり、楽しいことである。知的欲求を満たしてくれる。ネットに繋がっていれば、飽きることなく、次から次へと興味をそそられる情報が流れてくる。

だが、それを知って、何の役に立つのか。脳のシワを無駄遣いしているのではないか。もっと他のことに脳を使えば、スキルアップが図れるのではないか。そんな疑問が頭をよぎる。自戒の意味も込めて書いているのだが、時間の無駄ではないか。

何でもかんでも情報を集めることに、何の意味があるのだろうか。面白い情報、笑える情報ならまだ良いが、気分を害したり、腹が立ってくるような情報もある。

知らなくても良い、知りたくもない情報と接して、落ち込むこともあるだろう。知ることが辛くなってくるかもしれない。知ることは楽しいが、知らない方が幸せだということもあるのである。

いま世の中には、単なる情報に一喜一憂する場面がたくさんある。

たとえば、ブログやツイッターの炎上。気楽に書いたひと言で、批判されたり、罵声を浴びせられたりする。書いた人は、ひどく落ち込んだり、腹を立てたり。読んだ人も怒っていたりする。

これなどは、知らなければ存在しないできごとである。知ってしまったがために、気分を悪くする。知らなければ、健やかでいられたのに。

また、犯罪の連鎖、自殺の連鎖も情報によってもたらされる場合が多い。テレビやネットで知った犯罪の手口をマネするやつがいて、全国で同時期に、同じような犯罪が起こっている。小・中・高校生の自殺も同じ。情報に刺激されてしまうのである。

情報は、何でもかんでも流せば良いというものではない。人に大きく影響するような情報は、流すべきではない。

情報の利用者も、本当に興味のあることだけにアクセスすれば良い。仕事や趣味だけに利用していれば、腹が立つこともイライラもなくなる。

「情報難民」は、ある意味幸せである。ネットには、知らなくて良い情報が溢れている。

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