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海が酸性化したらどうなるの?

回答者: 野尻 幸宏 弘前大学 理工学部 地球環境防災学科 / 弘前大学大学院 理工学研究科 教授

聞き手: 甲斐沼 美紀子 IGES 研究顧問
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甲斐沼:人間活動によって大気中に放出された二酸化炭素(CO₂)の約20~30%を海が吸収しています。このため、海が酸性化して海の生物に影響が現れると言われていますが、なぜですか?

野尻:海洋酸性化で最も影響を受けると考えられているのは炭酸カルシウムの殻や骨格を作る生物です。魚は直接的な影響を受けにくいと考えられますが、生態系全体が変化することで餌や生息域が減ると、魚にも影響が現れる可能性があります。
どうして海洋酸性化という現象が起こるのか、しくみを説明します。表面海水中のpHは長い間8.1程度でした。しかし、産業革命以降、人間は大量のCO₂を排出するようになりました。その結果、増加したCO₂が海洋に溶け込んでpHが下がっています。海面のpHは産業革命以前に比べて既に0.1下がっています(AR5参照)。

CO₂が海水に溶けると、炭酸(H₂CO₃)となり、さらに、水素イオン(H⁺)と炭酸水素イオン(HCO₃⁻)ができます(式1)。

CO₂ + H₂O -> H₂CO₃ −› H⁺ + HCO₃⁻(1)

人間が排出している年間360億トン(炭素換算)ものCO₂の約30%が海に溶け、CO₂の平衡が変化して水素イオン(H⁺)が生じるので、海水のpHが下がります。これが海洋酸性化です。

この海洋酸性化が海の生物に及ぼす最も重大な現象が、炭酸カルシウムの形成への影響です。

植物プランクトンの円石藻、動物プランクトンの有孔虫、サンゴ、ウニ、貝類などは、海中のカルシウムイオン(Ca²⁺)と炭酸イオン(CO₃²⁻)を結合させて、水に溶けない炭酸カルシウムの殻や骨格を作っています(式2)。

Ca²⁺ + CO₃²⁻ -> CaCO₃(2)

ところが、上記のように、CO₂が海に溶けて、水素イオン(H⁺)濃度が上がると、増えた水素イオン(H⁺)のほとんどは海水中の炭酸イオン(CO₃²⁻)と反応して炭酸水素イオン(HCO₃⁻)を増やします(式3)。一方、海水中の炭酸イオン(CO₃²⁻)は減ってしまいます。

H⁺ + CO₃²⁻ -> HCO₃⁻(3)

すると、海中のカルシウムイオン(Ca²⁺)と炭酸イオン(CO₃²⁻)とを結合させて炭酸カルシウムの殻や骨格を作っている生物は、殻や骨格を作りにくくなってしまいます。動植物プランクトン、サンゴやウニなどが減ると、魚の餌や生息域が減るので、魚にも影響が出る可能性があるのです。

海洋酸性化のイラスト

(注)炭酸カルシウム(CaCO₃)を作る反応は炭酸イオン濃度が下がると進みにくくなります。大気中CO₂濃度が高くなると、炭酸イオン濃度低下によって炭酸カルシウム形成を起こしにくくなり、ついには形成できなくなりますが、その閾値は海水温で大きく異なります。低温の海ほど溶解に変わりやすく、無機化学反応だけを考えると700ppm程度で形成から溶解に変わると考えられます。

図1: 大気中のCO₂が海水に溶けて炭酸イオンが減り、炭酸カルシウムが作り難くなる仕組み

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参考:
1) IPCC(2013)第5次評価報告書.
2)野尻(2014)海から貝が消える.
https://www.cger.nies.go.jp/ja/news/2014/140516.html
3)東京大学
http://mt-utoa.webmasters.co.jp/learnocean/knowledge/0010.html

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追加説明:
追加質問 1:二酸化炭素(CO₂)が海水に入って、炭酸イオン(CO₃²⁻)が減るという仕組みが理解できません。炭酸水素イオン(HCO₃⁻)がさらに解離すると水素イオン(H⁺)と炭酸イオン(CO₃²⁻)が出来ます。そうなると、炭酸イオン(CO₃²⁻)が増えて、炭酸カルシウムができやすくなるのではないですか?

HCO₃⁻ -> H⁺ + CO₃²⁻(4)

回答(野尻):海水中にはもともと炭酸イオン(CO₃²⁻)がありますから

式5

の反応は増える水素イオンのために左向きに進むことになります。

詳しく説明すると、海水中では炭酸の化学種と水素イオンの比率は一定に保たれて、定数(K)で表されます。これをイオン濃度の式で表すと次のようになります。

K₁ = [H⁺] [HCO₃⁻] / [H₂CO₃](6)
K₂ = [H⁺] [CO₃²⁻] / [HCO₃⁻](7)

K₁、K₂は一定の定数で解離定数と言われています。この関係のために、炭酸濃度 [H₂CO₃] と炭酸水素イオン濃度 [HCO₃⁻] の比、炭酸水素イオン濃度 [HCO₃⁻] と炭酸イオン濃度 [CO₃²⁻] の比は、水素イオン濃度(あるいは、その指標である水のpH)によって決まることがわかります。それを示したのが図2です。普通の海水のpHは8くらいです。図2のpH=8を下に辿ってみて下さい。炭酸水素イオン濃度 [HCO₃⁻] と炭酸イオン濃度 [CO₃²⁻] は対数目盛で一桁違います。また、炭酸濃度 [H₂CO₃]はさらに一桁小さいです。ここから、炭酸水素イオン(HCO₃⁻)は炭酸イオン(CO₃²⁻)の約10倍、炭酸(H₂CO₃)の約100倍、海水中に存在していることがわかります。

このことを式6、式7を使って説明します。K₁は約1×10-⁶、K₂は約1×10-⁹です。pH=8の水素イオン濃度 [H⁺] は1×10-⁸です。この数字を式6、式7に代入します。

1×10-⁶ = 1×10-⁸ [HCO₃-] / [H₂CO₃](8)
1×10-⁹= 1×10-⁸ [CO₃²⁻] / [HCO₃⁻](9)

式8、式9はそれぞれ、式10、式11になります。
[HCO₃-]=1×10² [H₂CO₃] (10)
[HCO₃-]=1×10 [CO₃²⁻] (11)

式10、式11は海水中に炭酸水素イオン(HCO₃⁻)が炭酸イオン(CO₃²⁻)の約10倍、炭酸(H₂CO₃)の約100倍、存在することを示しています。

図2で、表層海水において一点鎖線 [H₂CO₃] がどのように決まるかを説明しましょう。海水中の炭酸濃度 [H₂CO₃] は表層海水に溶け込む大気のCO₂濃度が決めます。pHの範囲に関わらず、大気中のCO₂濃度が高くなると、海水には大気のCO₂濃度に比例してCO₂が追加的に溶け込むことで(ヘンリーの法則)[H₂CO₃] が高まり、その場のpHに従って、平衡な濃度のHCO₃⁻とCO₃²⁻を発生させます。

ここで、pH=8の現在のpHのところでH₂CO₃を増やしてみましょう。式6において、H₂CO₃を増やすと、K₁は変化しない定数であり、海水中には大量のHCO₃⁻がありますから、ほぼH₂CO₃に比例して[H⁺]が増えますね。つまりpH が下がります。これが海洋酸性化です。大気のCO₂が増えると海水のpH が下がります。海洋酸性化で起こる生物影響は [H⁺] が増えることで起こることもありますが、CO₂の平衡のためにもう一つの事象が起こります。

式7では、K₂が一定で、[H⁺]が増えて、[HCO₃⁻] は大量にあるので(多少pHが変化しても、炭酸水素イオン濃度 [HCO₃⁻] はほとんど変わりません)、[CO₃²⁻] が減るしかありません。図2のグレーゾーンの中で、pH が左にずれることと同じですね。左にずれることを炭酸種の濃度で表現すると、[H₂CO₃] が増える、[CO₃²⁻] が減るということになりますね。左にpH がずれた時に[HCO₃⁻] も少しだけ増えるのですが、これはもともとたくさんあるので変化率にするとわずかになります。縦軸が対数であることに注意しましょう。

画像2

図2 各pHの下での水素イオン濃度 [H⁺]、水酸イオン濃度 [OH⁻]、炭酸濃度[H₂CO₃]、炭酸水素イオン濃度 [HCO₃⁻]、炭酸イオン濃度 [CO₃²⁻]
出典(Carbon Cycle.” Ocean Biogeochemical Dynamics, by Jorge L. Sarmiento and Nicolas Gruber, Princeton University Press, Princeton; Oxford, 2006, pp. 318–358. JSTOR, www.jstor.org/stable/j.ctt3fgxqx.12. Accessed 15 May 2020.)

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追加質問 2:生物が炭酸カルシウムを作れなくなるようなことは起きるのでしょうか?

回答(野尻):生物起源炭酸塩(石灰化生物の殻や骨格を形成する)CaCO₃は、海水中の [Ca²⁺] と [CO₃²⁻] が飽和状態に溶解したときの濃度の積(溶解度積といいます)と、実際に海水中に溶解している [Ca²⁺] と [CO₃²⁻] の濃度の積の比に応じて、形成の容易さが変わります。産業革命以前の海洋表層では海水中の [Ca²⁺] と [CO₃²⁻] の濃度の積が溶解度積と比較して十分に高い状態だったので(およそ2~5倍でした。CaCO₃の結晶の形で異なります)、生物にとってCaCO₃の形成は容易でした。すなわち、余分な化学エネルギーを投入しなくとも、都合よくCaCO₃の殻や骨格を作ることができる環境のもとで、石灰化生物は進化したのです。海水中のCa濃度は人間活動で変化が起きないほど高い濃度なので一定と考えます。過去の海洋に比べ、現在の海洋では炭酸イオン濃度 [CO₃²⁻] だけが人為起源のCO₂のためにだんだん低くなってきました。その結果、海水中の [Ca²⁺] と [CO₃²⁻] の濃度の積が溶解度積に比べて高い度合いが下がっているのです(この低下の度合いはおよそ1.5~3倍となっています)。つまり、どの石灰化生物にとっても、海水中の [CO₃²⁻] の濃度低下のために、過去の海と比べて既にCaCO₃を作りにくくなっています。さらに酸性化が進み、もはや海水濃度の積が溶解度積より低くなってしまうと、化学平衡からいえば生物がCaCO₃を作れない状態になることすら考えられます。大気中のCO₂が増加するとき、低温の海水ほど早くこの限界点に到達するので、両極周辺の海域で、石灰化生物の危機が早く引き起こされる懸念があります。ただし、実際の生物は水中の炭酸イオンが溶解度積を下回ってもCaCO₃を作る能力があるので(陸水に住む貝類はその状況下でCaCO₃を作ります)、殻や骨格を作れなくなるかどうかまでは分かりません。しかし、生物は水中濃度が溶解度積を下回る状況のもとでCaCO₃を作るためには余分なエネルギーを使いますから、石灰化生物にとって不利な状況になることは間違いありません。

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追加質問 3:いつ頃から海水のpHは8前後になったのでしょうか?「太古にはCO₂濃度が非常に高かった(7000ppm)時代もあり、少々CO₂が増えても問題ではない。」というのは本当でしょうか?

回答(野尻):いつ頃から表層海水のpHが8程度なのかは研究のテーマです。温暖で陸上で石炭になる植物が繁茂し、恐竜が栄えた中生代(3億年前から7000万年前)のCO₂濃度は1000~4000ppmあるいはさらに高かったと考えられ、いまの海水中のCO₂平衡を考えると炭酸カルシウム未飽和になるレベルで、貝類の生息に不適だったはずなのに、貝類も栄えていたのはなぜか、という疑問がありました。
これに対する答えとして、最近の論文では海水中のCa濃度が今より相当に高かった、と考えるようになっています。絶対的証拠があるかどうかわかりませんが、こう考える方が、過去を理解できるのです。短期(といっても数百万年スケール)的に海水中のCa濃度が変わることはないのですが、千万年スケールなら、海洋石灰化生物の作用でCa濃度が変わっても構いません。つまり、中生代でも海洋石灰化生物が栄えていたので、炭酸カルシウム過飽和で、海の生物は炭酸カルシウムを作りやすかったと考えます。

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追加質問 4:温暖化によるCO₂濃度の上昇や海水温の上昇は、どんな直接的な影響をもたらすと考えられるでしょうか?

回答(野尻):新生代(7000万年前の大量絶滅・隕石衝突の後)以降の大気CO₂濃度はほぼ1000ppm以下と考えられ、海水中Ca濃度が今と大きくは違わないとすれば、この7000万年の間、海水中の炭酸カルシウムは適度に過飽和な状態が続き、海洋石灰化生物はそれほど困らなかったと考えられます。こんなことから、海洋酸性化の問題が本当に大変になるレベルは1000~2000ppmで、炭酸カルシウムが海水中で未飽和になるレベルだろうという予想も成り立ちます。

ここからは私の私見なのですが、800~1000ppmのCO₂レベルがもたらす温暖化が起こると、陸上の生物と人類の社会は相当に困った状況に陥ると考えられ、そのレベルに達しない努力をしていく必要があります。例えば2℃目標達成のような温暖化対策が実現できれば、海洋酸性化の深刻な影響は回避できるのではないかと考えています。

しかしながら、温暖化と海水温上昇の影響は既に現れています。おそらく、今後30年のような期間においては、酸性化以上に大きな問題です。日本の沿岸水温は気温と同じように1℃、あるいは、日本海ではそれ以上に昇温していますから、取れる魚の分布は変化しているし、移動の難しい定着性の生物相はどんどん変わっています。藻場を構成する定着性の植物(海藻や海草)が変化して環境が大きく変化している地域があり、水温の変化が影響しているケースが見られます。藻場が変化すると魚種や貝類も変化します。移動できる種は北に移動しています。歴史的に見れば、縄文時代は今よりもよりはっきり温暖だったはずですが、遺跡から取れる貝類などで、当時の海の生き物の分布は同じ場所ではより温暖種だったことはわかっています。

水温が高くなると海洋は鉛直に混合しにくくなるので、沿岸地域で海水が滞留することで富栄養化と無酸素化が、あるいは、沖合では下層からの栄養塩供給が減少することで貧栄養化が進行する可能性があります。北米東岸では既に中層の低酸素、高CO₂水が表面に現れやすくなっていて、酸素が減った海水がたまたま鉛直混合が起こった時に表面に現れ、低酸素と高CO₂による水産被害を起こす可能性が指摘されています。

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参考資料:
1)気象庁(2013)[コラム] 海洋酸性化
https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/shindan/sougou/html_vol2/col_1_4_2_vol2.html

2)北西太平洋亜熱帯域でのpHの平均的な鉛直分布
https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/db/mar_env/knowledge/oa/acidification.html

海水中のpHは一般的に弱アルカリ性を示し、表面海水中での約8.1から深くなるにつれてpHは下がり、北西太平洋亜熱帯域では水深1000m付近で約7.4と最も低くなります。

地図中の赤塗りつぶし部分で得られた観測データから求められた北西太平洋亜熱帯域でのpHの平均的な鉛直分布を示します。
赤線は平均値、塗りつぶしは標準偏差の範囲(±1σ)を示しています。

画像3

(編集: 石川智子)

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