見出し画像

Chapter30


 「ハルさん、好きです」
 「ありがとう〜」

 このやりとりを最後に朝倉アオイは海外へ旅立った。
 人気ガールズバンド「HIRON A’S」の世界戦を本気で進めるそうだ。
 オサムは会社を辞め、朝倉は海外へ。残った私は、変わらず日々の業務をこなしている。
 「激動の時」というのは、仕事だけでなくプライベートのすったもんだも関わってくる。家でも会社でも常に心を掻き回されるから、心身ともに疲れてしまい、自己コントロールを外れた不思議な言動が増えてしまうのかもしれない。

 独身のまま30代に突入し、残業前提でバリバリと仕事をこなし、浮いた話も少なかったせいか、プライベートより仕事を選ぶTHEキャリアウーマンという目を向けられた。
 実際、仕事をしている時が一番“生きている感覚”があった。
 だから仕事に没頭し、同時に社内からの印象通りに行動し、自分の選択肢を狭めていってしまった気がする。

 それが佐川オサムと付き合うようになると、少しずつ重心の位置が変わっていった。8歳も歳の差があると、無限の可能性という光が眩しく見える。
 彼にもっと活躍してもらいたい。
 何でもスポンジのように吸収する知識欲を満たしてあげたい。
 若さという時間を使いこなす彼が羨ましい。
 彼のエネルギーを隣で感じていたい。
 社内恋愛禁止という背徳感はさらに恋心を加速させ、「好き」という感情を超えた人間としての嫉妬まで抱くようになった。

 彼と付き合うようになってから仕事の内容もガラリと変化し、若者と仕事をすることが多くなった。
 自分は一歩どころか三歩ほど引き、若い才能を引き出しながら、全体を上手くコントロールしなければいけない。
 会社からは評価されないポジションだったが、若者からの支持が集まることが、大きな報酬になり、自分の細胞までも若返らせた。

 朝倉は私に好意を寄せていた。
 それは自分でも分かっていたが、あえて気付かないフリをして、彼の言動を楽しんでしまった。
 彼氏がいるとはいえ、自分が仕事だけでなく、女として若者から求められることが嬉しかったのだ。
 だから、曖昧な返信をして、彼を困らせてしまった。
 オサムが唯一気を許したのが朝倉だったことが、さらに事態を複雑化させた。
 そして、お酒の勢いでオサムが私たちの関係を明かしてしまったことが決定打となり、歪な三角関係が朝倉の純な気持ちを狂気へと走らせてしまったのだ・・・。
 
 幸い上司の阿部は、私とオサムの関係を会社には通達しなかった。
 社歴も実績もそれなりに重ねてしまった私と、HIRON A’Sを押し上げた若手最注目の朝倉、そして文化芸術に精通するオサムの奇妙な三角関係が公になったら、面倒なことになるのは日を見るより明らかだからだ。
 しかし、社内恋愛禁止の鉄則を破ったことを知ったからには、対処をしなければ、問題が起きた時に上司としての責任能力も問われてしまう。
 阿部は、オサムよりも私の方が会社にとって有益だと判断し、秘密裏にオサムに自主退社を促した。
 何より、直属の部下である朝倉の才能を潰したくないという強い想いがあったに違いない。
 そして、オサムは会社を去った。

 阿部の判断は正しかった。
 社内で独特の存在感を放つオサムが退職しても、不思議がる人はいないことを阿部は知っていた。
 案の定、仕事を少しずつ任されるようになっていたオサムが突然会社を去ったことは話題にはなったが、「芸術肌だったからね」という一言で流されてしまったのだ。
 しかし、大切な部下である朝倉アオイの繊細さをそれほど気にかけていなかったことが阿部の誤算だった。
 唯一慕ってくれた佐川オサムという仲間を失っても、オサムの彼女であり、恋心を抱いてしまった私が社内にいることが耐えられなかった朝倉は、HIRON A’Sを連れて海外進出を決めた。
 オサムの存在が消されるように話題は朝倉アオイ一色となり、若者の恐ろしいほどの熱量を誰も止めることができなかった。
 誰の目にもつかない海外での活躍が彼に自信をつけたのか、その後、彼は独立し、正式にHIRON A’Sのマネージメントをするようになった。
 会社にとっては優秀な人材の放出は大きな損失だが、HIRON A’Sは世界の階段を駆け上がり、その名を轟かせたことで、多くの人に幸せを届けた。
 
 オサムは小さな映像制作会社に転職が決まり、新たな世界で下働きから始めている。先輩には芸術に精通する人も多いらしく、仕事の話を楽しそうにしてくれた。
 全てが落ち着き、皆、歩を進めていることは幸せなはずなのに、どこかで私だけが停滞している感覚があり、心が固まっていく気がしてしまう。
 
 思い返すのは、いつもあの頃の激動の一瞬だ。
 皆、若かった。いや、私は若くないのだが、周りを渦巻くエネルギーがあまりにも刺激的で勘違いをさせてくれた。

 何でもない日常に幸せを見つけることができる人が日本にどれだけいるのだろうか。
 電車に乗り、会社にいき、給料をもらい、恋人とたまに遊ぶ。
 あまりにも普通なことに満足することができない。

 だから、彼が何度目かの「別れたい」という言葉を聞いた時、私は興奮してしまうのだ。こんな私は、異常なのだろうか・・・。


2時間17分・2130字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?