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【小説】 受験する者、しない者


 特製卵ソースに隠されたワサビ醤油が、ツンと鼻に抜けた。
 卵、アボカド、トマトのバランスが絶妙だったが、サラダ菜があればもっとフレッシュな食感になったに違いない。ヒロナは味わいながらも、少し反省した。

「美味しい・・・」

 ポツリとこぼしたミウは無心でサンドウィッチを頬張っている。
 暫し、無言の時間が続いた。
 自分達と同じように大晦日を公園で過ごす子どもたちの声に混じり、ヒュルヒュルと北風が歌っている。指先はかじかむほど冷たくなっているのに、ヒロナはうっとりと耳を澄ました。
 静かで、幸せな時間だ。

「受験は、どう?」

 ポットに入った紅茶を紙コップに注ぎながら、ヒロナは尋ねた。
 紅茶は太陽を反射し、湯気を立てながら琥珀色をキラキラと揺らしている。
 ミウは「ありがと」と小さく呟くと、フーフー冷ましながら、ゆっくり飲み始めた。

「うーん、正直、つまらないかな」

 ミウの唇からは、大量の白い息が漏れた。

「そっかあ。そうだよねえ」

 ヒロナの返答に何かを察したのか、ミウは真面目な顔をしてヒロナを見つめた。

「でも、この時期に勉強をしないことの方が大変だと思うよ。どうせアキは曲作りに夢中だろうし、ヒロナは遊び相手がいないワケでしょ?」

 ヒロナはミウから目を逸らし、小さく頷く。
 図星だった。
 年内最後のレコーディングが終わってから、ヒロナは燃え尽き症候群になってしまい、自分の将来について不安を抱く時間が多くなっていた。
 どうして、音楽の道に進みたいと思ったのか。
 なぜ、大学受験をやめてしまったのか。
 考えれば考えるほど、黒い雲がヒロナの胸の中に生まれる。
 だからこうして大晦日にミウを息抜きと称したピクニックに誘ったのだ。
 息抜きは、勉強に忙しいミウのための言葉ではなかった。

「それは大変だよ。『今日は何をしよう』って毎日考えなきゃいけないなんて、私には無理。最初の数日は楽しいかもしれないけど、そんなの飽きるに決まってる。もちろん、この自由時間を音楽に全振りできるっていうメリットもあるけどさ。それだけじゃね。味気ないと思うし、やっぱり、大変だろうなあっていつも考えてるよ」

 淡々と話していても、ミウの言葉の中には優しさがある。
 ヒロナは何度も頷きながら、サンドウィッチを口に詰め込んだ。
 込み上げてくる感情を、隠し味のワサビで誤魔化したかったから。

「なんか、ミウって、達観してるよね」

「どうだろう、そんなことない気がするけど。受験勉強してて本当にそう思っただけ。テスト対策だけしてればいい生活って、意外とラクなんだなって。ある程度の難易度がないと、人間って退屈しちゃうんだよ」

 予期せぬ答えに、ヒロナは虚を衝かれた面持ちになった。
 心なしか、ミウも少し不安そうにしている。
 成績優秀で、恋愛やバンド活動もキッチリこなすミウから“退屈”なんて言葉が飛び出てくるとは思っていなかった。

「いやいや、受験勉強も難易度高いと思うけど・・・」

「受験なんて難易度低いよ。誰でも出来るんだから!」

「できないよー! 私、高校受験大変だったの知ってるでしょ?」

「でも、ちゃんと同じ高校に入れたじゃん。頑張るか、頑張らないかの差だけで」

「それは、そうかもしれないけど・・・」

 まるでミウに誘導されているみたいに受け答えをしていく。
 すっかり食の手が止まってしまったヒロナに対して、ミウの手は止まらない。
 黙っている間に、ミウは最後の一口を美味しそうに食べ切った。「ああ。美味しかった! ご馳走様でした!」と言うと、紅茶を飲んで一息。
 口ごもるヒロナを見て、ミウはプッと吹き出した。

「ヒロナが本気で悩んでる姿、初めて見たかも!」

 すぐに言い返せなかったのは、ミウが屈託なく笑ってくれたことで、幾分かは救われている自分がいたから。
 ミウはあっけらかんと話を続けた。

「あのね、テストの点数の良し悪しは、解き方を知ってるかどうかの問題なの。スキルの話なんだよ。だからスキルのない人は低い点数で無気力になっちゃうし、逆にどれだけ高得点を取れるスキルを持っていたとしても、テストは100点以上は取れないワケだから、どこかで退屈しちゃうんだと思う。だから受験勉強はラクだなって」

 なるほど。なんとなくミウの言わんとしていることが見えてきた。
 そもそも受験勉強をテスト対策として捉え、いわゆる勉強とは切り分けて考えているようだ。聞いているうちに、テストの意味を問われているような心持ちになった。
 サンドウィッチに満足したのか、ミウはますます饒舌になっていく。

「ヒロナの決断は、物凄く難易度が高いことなんだよ。自分のやりたいことのために他の道を断つなんて、普通の人はできないよ。でも、そんな難しいことには“退屈”はついてこないでしょ? まだヒロナにはスキルが足りていないから不安になる。それだけだと思う」

 ミウは「まあ、それは私もなんだけどさ」と付け加えたが、ヒロナの耳には、もう言葉は入ってこなかった。
 難しいと不安がセットで、簡単と退屈がセットになる。じゃあ、難しいけど、今よりもスキルが上がれば・・・、やる気になるってこと?
 頭の中をグルグルと思考が巡りだす。
 咀嚼音が体内に響く。噛むほど、視界がハッキリしていくのが分かった。

「そういえば、ヒロナは、なんで大学行かないって決めたの? 聞いてなかったよね?」

 不意に聞こえてきたミウの質問に、胸の奥がチクリと痛み、サンドウィッチから味が消えた気がした。

 2200字 2時間10分

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