見出し画像

Chapter28



 アオイ先輩は、確かに「絶対に言わないよ」と言った。
 社内恋愛禁止のルールを破ったものはクビになる。これは組織に属している以上、抗うことはできない決まりだ。
 契約書にこそ書いてないが、このしきたりは業界でも有名で、細かい社内規定を知らない人はいても、社内恋愛禁止のことを知らない社員はいなかった。
 バレた途端に窓際に異動。不当を申し出ても、恋愛とは別の異動理由を述べられるため、申し出は却下されてしまう。
 そして、目の前に立ちはだかる壁の大きさに打ちひしがれ、自主退社をしていく。
 これが多くの社員を抱える会社としての生存戦略なのだ。

 人権侵害だと思ったこともあったが、社内恋愛がキッカケの退職者には、しっかりとフォローを入れているようだ。
 入社してすぐに社内恋愛にハマり、退職した同期がいた。
 彼は素直に事実を認め、若いうちから可能性を狭める必要はないと自ら退社をした。どれほど不満があるかと思っていたが、会社とは真剣に将来についての話し合いが行われ、僅かだが退職金まで貰えたこともあり、むしろ「オレがルールを無視したからだ」と清々しい顔をしていた。

 「会社にバレたら、ボクがクビになっちゃうので」
 バーとはいえ、誰が聞いているか分からない。顔を寄せて、小声で伝えた。
 藤野ハルとの交際がバレたら間違いなくボクがクビになる。
 入社歴も違ければ、会社への貢献度も圧倒的に違う。窓際に異動になっても、岸田マキコのような復活劇もないだろう。そもそも芸術文化部は、社長こそ気に入ってくれているが、他の社員からしてみれば、よく分からないオタクの集いだ。
 ボクが辞めたとしても、誰も異論はないだろう。
 これは謙遜でもなんでもない、事実だ。

 「大丈夫だよ。言わないし、オサムくんがウチにいてくれないと、オレが困るから」
 研修指導員として、先輩に仕事のノウハウを教えていたことが懐かしく思った。ボクが気付く前に先輩から声をかけられ、記憶が中学時代まで飛んだこと。喫煙所で交流が生まれて以来、二人でいることが多くなり、社内でも仲良しコンビと話題になったこと。仕事からプライベートまでなんでも話すことができたこと。
 身体にお酒が染み渡るように、先輩との思い出がフラッシュバックした。
 先輩の言葉にはいつも体温があり、心地よかった。

 「それに、そんなこと言ってもオレには何のメリットもないからね」
 言葉の丸さとは裏腹に、顔は凍った仮面を被ったように硬直していた。口角は上がっているのに、目は虚。ゆっくりとグラスを傾けながら、何かを考えているようだった。

 「誰にも言ったことがなかったので、そう言ってもらえて・・・」
 何も考えずに言葉を発しただけなのに、急に目頭が熱くなり、大きな涙が一滴だけ流れてしまった。
 秘密を抱えるエネルギーに疲れていたのだと思う。
 単純に優しい言葉をかけて欲しかったのだ。
 たったそれだけなのに、自分を認められているような気がした。

 「え、なんで?」
 先輩は笑いながら、ボクの背中をさすり、マスターにお会計をお願いした。
 マスターも「今日はなんだか良い一日になったようだね」とご機嫌で、他の客もボクらの姿を見て「熱いなあ! いいねえ!」と声をかけてきた。
 背中をさすられながら照れていると、フと先輩の足元が目に入った。

 先輩は、ものすごい早さで貧乏ゆすりをしていたのだ・・・。


 1時間42分・1390字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?