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chapter13


 左の胸に締め付けられるような痛みがあり、心の居場所を見つけたような気がした。
 「ボク、藤野ハルと付き合っているんですよ」
 佐川オサムの口元に浮かぶ微笑が、さらに胸を苦しくさせた。
 その後、聞いてもいないのに、彼は彼女との馴れ初めや、結婚を視野に入れた将来の展望の話などを細かく話した。
 同年代の友達が少なく、社内でも風変わりと評されている彼が、まるで中学生に戻ったように彼女の話にうつつを抜かしている姿を喜ぶべきだったのだろう。新たな一面を見た時に、人はギャップを感じて嬉しくなるのだろう。自分にだけ見せてくれたのかしらと親近感も縮まるのだろう。
 もっと早くオサムと出会っていたら、人並みにウンウンと笑顔を見せながら酒を傾けて話を聞くこともできたのかもしれない。
 でも、それができなかった。
 オレは、藤野ハルのことが本気で好きだったのだ・・・。

 広告代理店からイベンター会社に転職した。
 想像していた華麗な世界と実際の業務とのギャップに違和感を覚え、もっと自分が主体となって仕事をしたいという想いが増していった結果だ。
 企業規模は小さくなるが、代理店の仕事と離れた業種ではなく、自分が培ってきたスキルを応用出来ること、そして、20代最後の挑戦だということが決心の背中を押した。
 株式会社スタッフワームは音楽事業がメインの会社ではあるが、音楽に限らず、テレビ局が主催するお祭りの運営や文化芸術部門などもある、幅広いエンターテイメントの色が強い。規模は小さいといえど、業界内では有名企業だ。
 毎年中途採用を受け入れているワケではないのだが、新たな才能との出会いや新人育成に力を入れるという転換期に突入したタイミングだったそうで、運よく入社することができた。
 新入社員は配属希望の部署に関係なく、全ての部署の研修を受ける。
 オフィスでの事務作業もあるのだが、LIVEやイベントを多く請け負っているため、社員は基本的に外出していることが多く、それぞれの部署の指導員のもとで現場に赴くため、研修内容は多様だ。
 驚くことに指導員は若く、指導方針などもそれぞれに委ねられていたため、良い指導員が担当にならないと希望していた部署の印象も悪くなりかねないのだが、それは指導員たちの育成も兼ねているという昔からの決まりだそうだ。

 「藤野です。よろしくお願いしまーっす」
 基本的に年下の指導員と現場を回っていたが、この日だけはスケジュールが空いていたということで年上の指導員がつくことになった。
 茶髪に金髪メッシュ。ショートヘアで薄めのメイク。黒を基調としたチェック柄のジャケットとパンツのセットアップ。踵の部分だけがシルバーに光る背の低いヒール。
 彼女の存在は異彩を放ち、社内でも超がつくほどの有名人だった。
 弾けるような笑顔と軽い言葉遣いに愛嬌が滲んでいるが、彼女の表情には仕事を積み重ねてきた自負がうかがえた。
 それは決して鼻につくようなものではなく、彼女のアイデンティティになっているような、自分のために身につけた美しいベールに見えた。

 「よろしくお願いします。朝倉アオイです」
 オレは必死で笑顔をつくろい、なるべく幼くならないように一語ずつ丁寧に発音した。
 「朝倉アオイくん、よろしく。私はハルだから、アオイとハルで青春だね」
 彼女の言葉が何を意図しているのかわからなかった。
 青春だと何がいいことがあるのだろうか。
 それとも、オレの表情を読み取ったのだろうか。
 年齢差を感じさせない話し方に、オレは戸惑っていた。
 会話がずっと続いていたワケではないが、彼女の話す言葉に、いちいち左胸が騒ついていた。
 笑われてしまうだろう。
 でも、恋に落ちるにはそれだけで十分だったのだ。

 そして、次の研修先で指導員になったのが、佐川オサムだったのだ。


1時間53分・1540字

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