見出し画像

Chapter11


 妹・サクラの一番最初の彼氏。それが佐川オサムだった。
 すでに携帯電話が普及していたにも関わらず、彼は固定電話に電話をしてきた。
 「も、もしもし、サクラさんと同じクラスの、さ、佐川オサムといいます・・・こ、これから、わ、忘れ物を届けに行きます。家の前で待ってて欲しいと、サ、サクラさんにお伝えください」
 声の震えから伝わる緊張感と慣れない言葉遣いにすぐにピンときた。
 これが縄張りを守ろうとするオスの本能なのだろうか。
 佐川オサムは妹に告白をしようとしている。
 とうとう訪れてしまった妹の青春に、喜びと寂しい気持ちが同時に押し寄せてきた。
 5歳も年齢が離れてしまうと、いわゆる兄妹ゲンカの経験はない。親からも“妹と張り合う”という選択肢は与えられず、面倒見のいいお兄ちゃんにならねければいけなかった。
 そのせいもあり、彼女はいつもオレの手を握り、どこに行くにもついてきた。自他共に認める仲良し兄妹だったのだ。

 胸のザワつきを抑えたままサクラに報告すると、彼女はポッと顔を赤らめ、すぐに髪を整え始めた。
 首に汗を滲ませながら髪をとかす妹の姿が妙に色っぽく、胸のザワつきはチクチクとした痛みに変わっていくのを感じた。
 恋をしている女性は本当に美しい。
 瞳が輝きだし、口元には自信が宿る。
 もう、彼女の視界には佐川オサムしか見えていないだろう。
 支度を終えると、彼女は時間を調整するかのようにゆっくりと玄関に向かった。
 髪の毛に何かをつけたのだろう。女子特有の甘い匂いが部屋に充満している。
 「ファイト」と声をかけるオレに、彼女は何も言わずにピースサインをした。
 
 ベランダから二人の様子を眺めていると、彼はあっという間に背を向けて帰ってしまった。
 何を喋っているのかはもちろん分からないし、お辞儀をしたり、握手をすることもしない。もしかしたら、告白ではないのではないかと思うほど、アッサリしていた。
 帰り際、笑顔でサクラに手を振っている彼と一瞬目が合ってしまった。
 ほんの一瞬だけ、彼は驚きと恐れと嘲笑を混ぜたような顔をした気がする。
 あの時、オレはどんな顔をしていたのだろう。

 その後、彼とは数回顔を合わす機会があったのだが、これといった会話はなく、彼もあの時のような表情を浮かべることはなかった。
 二人の関係が続くにつれて、妹に対する寂しさは薄れていき、可愛がるというよりも、サクラの人生を応援するという関係性に変化していった。
 だから、いつまで二人の関係が続いたのかは分からないし、聞くことすらしていない。
 しかし、オレの頭の中では“妹の初めての恋人”というページに佐川オサムの名前が刻印された。

 「オサムくん、オレのこと覚えてる?」
 何年経ったのだろうか。目の前には、あの時の記憶からは少しだけ大人びた佐川オサムが指導員として座っていた。
 彼はオレの顔を見ると、一瞬だけ驚きと恐れと嘲笑を混ぜた顔を見せた。
 この顔が、あの時の記憶がフラッシュバックさせた。

 その後、自分が朝倉サクラの兄だということ、転職の経緯などを話すと、旧友にでも会ったかのように一気に距離が縮まった。
 彼はオレに心を許し、何度も酒を交わして、相談に乗ったり、くだらない遊びばかりに興じた。
 5歳離れていたこともあったのかもしれない。
 仕事上では彼が先輩だが、弟のように彼を可愛がった。
 彼も同世代の子たちとはつるまず、いつも、オレの近くいた。

 その日もいつものように、ラムを片手にクダを巻いていると、オサムは真剣な顔で、隠していたことがあったのですがと話し始めた。
「実はボク、藤野ハルさんと付き合っているんです」
「・・・そうだったんだね。知らなかったよ。幸せになれるといいね!」
 最初は何を言っているのかが分からなかった。
 そもそも、この会社には暗黙の社内恋愛禁止ルールがあったはずだ。
 しかも、藤野ハルは社内でも有名人で、隠れたファンも多いはず。

 祝杯のテキーラが喉を通った時、腹の中にある感情が爆発しそうになった。
 彼はキョトンとしていたが、オレは驚きと恐れと嘲笑の顔を隠すことができないと判断し、思わずトイレに駆け込んだ。

 妹の初めての恋人は、オレが恋する相手の恋人だったのだ。

1時間49分・1730字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?