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Chapter4


 「人を心の底から信用してはならない」
 トイレに入るたびに胸ぐらを掴まれたような気分になる。
 世の中にはたくさんの「絶対」が転がっているが、どの「絶対」にも何かしらの抜け道がある気がしてならない。
 しかし、便器に座って用を足しているときに目に入ってくるメモ用紙には、純度の高い「絶対」が隠れていた。
  
 アオイ先輩は、中途採用でウチの会社に入ってきた。
 中途採用の人との付き合いは本当に難しい。
 年齢もキャリアも上の先輩だが、社内では新人のため、まずは新人研修に参加することになっている。
 アオイ先輩と初めて出会った時、ボクは彼の指導員だった。

 「オサムくん、オレのこと覚えてる?」
 ボクは解答者に選択肢が一つしか与えられていないような質問が大嫌いだ。
 すぐに気持ちが表情に顕れる悪いクセが出てしまった。
 ボクは頬をピクピクさせながら返答を考えていたが、アオイ先輩は返事を待つことなく「あ、ごめん。覚えていないよね? オレ、オサムくんが中学の時付き合ってた朝倉サクラの兄貴、アオイです」とマスクに隠れていた顔を見せながら優しく笑いかけた。
 マスクの下から覗かせた「伸びたケツアゴ」に、心臓が大きく鼓動を打ち、一瞬のうちにボクは中学時代にトリップした。

 人生で初めて女性とお付き合いをしたのは、中学2年の夏。
 緊張と夏の暑さで身体中をベタつかせながら朝倉サクラに告白をした。
 どうしてそうなったのか、ボクは彼女の家の前で告白するという青春をかましていた。
 携帯電話はすでに普及し、中学2年にもなればクラスのほとんどが携帯電話を持っているような時代にもかかわらず、ボクは彼女の家に電話をかけて、彼女を家の外に呼び出して、その場で告白。
 中学生の行動心理は複雑だ。
 ボクは、告白が成功しているのに「ありがとう。じゃ! また明日、学校で!」と言い放ち彼女の家を後にした。
 帰り際、ふと目を彼女の家に向けると、目元が彼女とそっくりでアゴの伸びた男の人が見えた。彼こそが、彼女の兄・朝倉アオイだったのだ。
 付き合った人の兄弟というのは不思議な存在で、その後、数回アオイと会う機会があった。
 挨拶をする程度だが、会うたびに彼のアゴに注目してしまい、伸びているだけでなく、アゴが割れていることにも気づいた。
 その後、彼女との青春が終わり、アオイとも必然的に関係が断たれたのだが、『伸びたケツアゴ』という情報量の多い言葉は、高い鮮度で心に冷凍保存された。

 「あ! 気付かなくてごめんなさい! 覚えています! アオイ先輩! ご無沙汰しています。佐川オサムです!」
 「学校じゃないんだから、『先輩』は恥ずかしいよ。でも、覚えていてくれて嬉しいな」
 ボクたちは新人研修で出会ったその日から、一気に距離を縮めていった。
 広告系の会社に勤めていたアオイ先輩は、そのキャリアを活かして広報部に配属され、あれよあれよという間に出世し、ボクは堂々と「アオイ先輩」と呼ぶことができるようになった。
 アオイ先輩と話していると、告白成功後に直帰するような青春時代に戻った気になってしまう。
 昔話をしたり、悩みを吐露し、夢を語り、ヘベレケになりながら、朝方「すしざんまい」に辿り着くということを繰り返した。
 時間の経過とともに、アオイ先輩を心の底から信用するようになり、ついに、ボクは藤野ハルとの関係を明かしてしまった。
 アオイ先輩は「そうだったんだね。知らなかったよ。幸せになれるといいね!」と言い、祝杯のテキーラを飲んだ後「ごめん、嬉しくて調子乗りすぎた」とトイレに駆け込んだ。
 何度もお酒を酌み交わしてきたが、アオイ先輩がトイレに駆け込んだのは、あの時だけだった。

 「佐川、お前、藤野ハルと付き合っているのか? ごめんな、朝倉から聞いたんだよ。お前らのことを」
 上司のシャガれた声が部屋に響いた。
 二人で会話をするには大きすぎる会議室に呼び出された意味を理解した。

1時間36分1620字




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