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【小説】 静かな大晦日の始まり。


 顔を洗い、歯を磨く。
 たった数分の出来事のはずなのに、ヒロナの身体は芯まで冷えてしまった。
 ストーブ口から乾いた温風が流れてくる。
 ストーブの前を独占し、三角座りの膝の間に顔を埋めると、じわじわと指先に血が回るのが分かる。
 温かいはずなのに、思わず冷たいと思ってしまう不思議な感覚が残る。
 朝は頭の中が空っぽになる。
 「ヒロナー! モーニング! 朝ご飯どうする?」
 母の快活な声がヒロナの頭の上から聞こえてきた。
 どうして親というのは朝にめっぽう強いのだろう。
 母が眠い目を擦っている姿を見たことがない。
 朝聞くにはあまりにもキンキンした声をあげる母に、膝の間で顔をしかめた。
 母は再び「朝ご飯どうするの?」と声をかけたが、ヒロナはピクリとも動かずに「おーはーよー」とだけ答えた。

「なんか、大晦日って何していいか分からないよね」
 朝ご飯はヨーグルトだけにした。プレーンタイプのヨーグルトの中にバナナ、りんご、あんずが入っている。白く包まれたゴロゴロのフルーツを口に運ぶと甘みが口に広がり、ヒロナはようやく頭の中がクリアになっていった。
「俺は、勉強するだけだから。特に何も変わらないかな」
 弟のユキトは、食事の時だけ顔を見せる。
 思春期とも反抗期とも違う。
 これが彼の家族との付き合い方で、適切な距離なのかもしれない。
 ユキトの前には、サラダ、餃子、唐揚げ、白米、と朝からヘビーなメニューが並んでいる。何の気なしにパクパクと食べることができるのは、若さ以外には説明つかないと思う。
「ユキトって、ほんと偉いよね。誰に似たの?」
「あたしに決まってるでしょ」
 母は買い置きの小さなあんぱんを頬張りながら答えた。
 コーヒーメーカーから深みある香りが漂い、部屋中を満たしている。
 母はズズッとブラックコーヒーを啜った。
「それはない! お母さんも真面目だけど、ユキトほどの勤勉さはありません。どちらかと言ったら、私の方がお母さんに似ちゃった感じがするもん」
「確かに勤勉ではないか。でも、じいちゃんは真面目だったわよ!」
 窓から入る朝の日差しが、食卓を明るくする。
「ヒロナと母さんのこと見てたら、こうなっちゃマズいと思ってさ」
ユキトは大きな口を開けてご飯を食べるくせに、ボソボソと話した。
「でた、反面教師!」
「じゃあ、あたしたちに感謝してもらわないと!」
「なんでだよ」
「そうだよ、だって・・・!」
 スプーンが器に当たる音。
 コーヒーカップをテーブルに置く音。
 サラダを咀嚼する音。
 パンを飲み込む音。
 ヒロナ家ではテレビをつける習慣がないこともあり、食卓にはたくさんの音が響いていた。
 窓から見える青空には雲一つ見当たらない。
 何も起こらない静かな大晦日が始まった。

1100字 1時間23分

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