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Chapter29
「すみません、会社を辞めようと思います」
思い詰めた表情で彼は告げた。
目の下にはクマがあり、こけた頬のせいか口角も下がって今にも泣き出しそうだった。
すぐにでも慰留の言葉をかけてあげるべきだったが、本能的に“何も答えない”という選択をしたのかもしれない。
部屋から音が消えた。
手前から奥へフォーカスが切り替わるように、窓の外からボンヤリと車や工事の音が聞こえてくる。
目の前に座る青年は待つことに耐えることができなくなり、分かりやすいほどチラチラと目を泳がせ、身体を揺らしはじめた。
私は大きく鼻から息を吐いた。
世代ギャップをあらゆるところで感じてきたが、決定的に今の若者と差を感じるのは待ち時間の過ごし方だ。
もちろん休憩時間などは好きにすればいいと思っている。
しかし、クライアントやアーティストからのレスポンスが遅い時、ほとんどの若者は催促や何度も確認の連絡を送ってしまう。
それはとても真面目なことで、大前提として持っていなければいけない仕事人としてのプライドだとは思うが、“待つ”ことの信頼関係の築き方があることも事実なのだ。
駅のホームやお店での待ち合わせで、僅かな待ち時間をどのように消費しているだろうか。
GPSや連絡手段のない時代は、約束を守ること、相手を探すことに必死で、会えただけで関係値が上がることもあった。
“待つこと”と“待たせてしまう”が絶妙にバランスを保ちながら生活の中に潜んでいた。
“待たせてしまう”ことは一見、よくないことだと思われがちだが、当時は何事も長期的に物事を考えていたことが“待たせてしまう”ことへのハードルの低さにも繋がっていたのかもしれない。平気で人を待たせた。そして、それも分かった上で、待つ側も対策を練った。
「え、あ・・・」
朝倉アオイは、とうとう静寂に耐えられなくなり声を出そうとした。
言葉未満の単なる音に過ぎないかもしれないが、外の雑音を消すにはそれで充分だった。
彼が言葉を出す前に、すかさず上司としての意見を率直に述べた。
「何で辞めようと思ったの?」
どこにでも転がっているようなありふれた言葉をかけたつもりだったが、地雷を踏んだかのように彼の顔は引きつり、黙ってうつむいてしまった。
再び、部屋には音の空白が広がる。
今度は自分の番だと、どっしりと彼の言葉を待った。
しかし、どれだけ待っても空白は埋まらず、うつむいた彼の目からは涙がボロボロとこぼれ出した。
「おい?」
「どうした?」
「何が会った?」
「言ってみろ?」
「楽になるぞ?」
「ほら?」
「落ち着いてな?」
相手の言葉も待たずに、次々と声をかけ、彼を問い詰める形になってしまった・・・。声をかけながら、赤面し、心の中で若者に謝罪した。
「すみません。えっと・・・」
朝倉は落ち着くと、少しずつ口を開けて語り始めた。
どうやら、原因は佐川オサムと藤野ハルの恋愛事情にあるらしい。
社内恋愛禁止にも関わらず、彼らから秘密を共有されたことで、自分も共犯者のような罪悪感に苛まれ、辛くなってしまったようだ。
特に藤野は社内でも有名で、キャリアウーマンを象徴するような人物なだけに、現実とのギャップにショックを受けたとか。
辞める動機にしては弱すぎる気がしたが、涙を流すほど抱え込んでしまったことには変わりない。すぐに対応することを決めた。
「朝倉、このことは誰にも言ってないか?」
「・・・はい。言えなくて、それが余計に・・・」
「分かった。誰にも言うなよ。あとは私が何とかするから。今日はありがとう」
「よろしくお願いします」
彼は誰かに話を聞いてもらいたかっただけなのだろうか。
部屋を出ていく頃には、憑き物が取れたように晴れやかな顔をしていた。
さっきまでの沈黙が嘘のようで、目の奥には闘争心の炎が燃えていた気がする。
狐につままれた気分になり、一服のコーヒーに手を伸ばすと、力が入っていたのか大量に汗が握られていたことに気づいた。
1時間39分・1640字
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