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立つ

ほんとうに姿勢よく(=身体が設計された通りに)立つことが難しいのは、そのような状態の時には立っている実感がないからではないかと思います。

変に気張って立っていると、肩や胸や腿の筋肉を使っている感があるので、意識にとっては「良く」立っているように感じられるのかもしれません。大間違ーい。意識は騙されやすい。

設計された通りに立っている(らしい)時は、身体の軸が空洞のように感じられつかみどころがない。

この感覚と孤独の感覚は伴って起きるような気がしています。
でも、孤独と言っても、友達がいない、パートナーがいない、家族がいない、パーティにも呼ばれない、などの孤独ではありません。

立つという在り方の中で「つかみどころのない」安定を獲得すると、非常に心地よい。
心地よいだけでなく、物理的にも精神的にも視野が開けるような感覚があり、毎日の生活の中で何をしようが、成功も失敗もなく、ひたすら穏やかに楽しい。と、このように書いても、いま私が感じているというか生活しているというか、まあ、「在り方」ですね、を十分に伝えられているとは到底思えない。

この「つかみどころのない」安定の獲得のプロセスや、境地を、ぜひ他の人にも(警戒されない形で笑)伝えたいと思うのですが、どうにもこうにも伝え方がわからない。以前よりずっと人とのつながりを感じているのに、妙な隔絶感がある。
このような意味での孤独です。

マザーテレサ本人は孤独感に苛まれ続け司教だか誰だかに悩みを相談していたと聞いたことがあります。イエスやブッダも実はめっちゃ孤独だったんじゃないかなーと感じます。
もちろん、飲み会に呼んでもらえない、という意味ではなく。

私に一つ言えることは、身体に向き合い続けると、生活のルーティンとは別の世界にたどり着くことがあるということ。制度化された宗教とは無関係の、しかし、(適切な言葉がないので使いますが)宗教体験的な。

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