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0227.感情は水分でできている



人はいつから泣くときに声を出さないようになるのだろう。きっと「気付かれてはいけない」と意識するのがきっかけなんだと思う。映画館で心を打たれているときには役立つけれど、それ以外にそう意識しなければいけないことがあるとしたら、とても孤独なことだなあと思う。

私はわりと物心ついた時から声を殺すタイプのこどもだったので(泣くのはかっこ悪いと思っていた)未だに「感情が制御できず出てしまった」自分の声に慣れておらず非常に違和感を感じる。変な声だ、と思う。嗚咽という言葉が良く似合うような音。

芝居をやり始めてから初めて自分のそれを聞いた時は思わず「これが本物の嗚咽か」と、涙が止まった。それまでの自分の「嗚咽する」の演技が全くの嘘だったことに気付いてしまったからだ。自分のからだの、出したことのないところから声が出ていた。声帯も横隔膜も口の形もまったく制御出来なくて、ただ口から音が漏れているという状態。衝撃だった。


なんでこんなnoteを書いているかというと、今日久しぶりに声を上げて泣いたからである。
PMDD真っ只中に色々な小さいことが重なってしまって。表面張力ギリギリのところで溢れないように溢れないようにと水が引くのを待っていたけれど、ダメだった。不安定な心では受け取るものも不安定だから、ふとしたトリガーで溢れた。一度涙が溢れたらいよいよ自分が制御出来なくなって、最終的にワッと大きな泣き声が出てしまったのである。一瞬自分の声に驚いたけれど、箍が外れた横隔膜は空気の量を調節できない。20秒くらい泣き続けたら、ふっと頭がクリアになった。表面張力のコップの水を、ひっくり返して全て捨てたような感覚。

ちゃんと泣く、というのは、非常に大切なライフハックであると思う。デトックスという言葉でまとめてしまうのは勿体ないくらい、涙と感情は深く関係している。

頭で自分の状態を理解するより先に涙が出て「ああ、自分のこころは今動いているんだ」と知ることが多々ある。もちろんそれは喜びや感動も含めて。

はじめに映画館の例えを出したけれど、映画館で皆で嗚咽していてもそれはそれで良いのではないだろうかと思う。ミッドサマーという映画で、主人公が嗚咽する時に周りの人たちもその主人公の悲しみと同じ熱量で嗚咽するというシーンがあるのだけど、私はそのシーンを見てとても感動した。泣いている人がいる時、慰めるのではなく同じ熱量で泣く。これはとんでもなく相手に寄り添っているのではないだろうかと思ったからだ。そして恐らくこの出来事がその後の主人公の行動に直結している。言葉ではなく行動が主人公を動かしたのだ。…ネタバレになるから詳しく言えないけれど…(ホラーが大丈夫なら是非観てほしい)

今回私が嗚咽したときそばにいてくれた人は、一緒に嗚咽はしなかったけれど「泣かないで」とは一度も言わずに寄り添ってくれた。気が済むまで泣かせてくれるというのも大きな寄り添い方だと思う。有難かった。そして、この人の前で素直に泣けたことが申し訳なくも嬉しいことだなと思った。


自分が寄り添う側になったとき、どんなふうにそこに居たらよいかなと考える。コップをさかさまにするにはどうしたらよいか。私がされて嬉しかったことや有難かったことが、その人にも当てはまるのか。きっとそのときにならないとわからないけれど。

今日優しさをもらったぶん、今度は誰かの涙を拭えるように。明日のハンカチを準備して眠る。



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