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【5/13】たとえ何処にも行けなくても――TempalayのZepp Hanedaワンマンライブに連れて行ってもらったら凄まじかった話

霧雨に靄った何もない道を友人と連れ立って歩いていくと、巨大な鉄の塊のような建物が靄の向こうに見えてくる。人影が見えなさ過ぎて怖い程だった視界の端に、人間の気配をうっすらと感じるようになった。小さなエレベータに乗り込んで上へ。煩わしい傘は早々に閉じ、吸い込まれるようにして喧騒の中に身を投じた。

アニメショップらしき店にカフェなど、きっと普段はお客で賑わい、人気が絶えないのであろう店々が軒を連ねる空港の施設は、緊急事態宣言の影響か全ての店が休業していた。照明を落とし、薄暗く黙りこくっている様子がまるで大きな機械生命体が眠りこけているように見えた。雨を掻き分けるようにして、僕達は階下の入り口から機械生命体の体内へ入る。

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フロアの中は満員だった。あまりに満員だったので少し怖くなり、ひとの少ない後ろの方の座席へ移動する。頭上からはジャングルの生き物の鳴き声や何かの遠吠え、鳥の声、それに重ねるようにして何やら映画の音声のような、男女の話し声が降ってくる。幾つかの映画の音声がマッシュアップされているかのような人工的な喧騒に、フロアに集まったオーディエンス達の喧騒が重なって足元が落ち着かなくなる。

いつもこうなんですか、と同行の友人に聞くと、彼女は前回はこうじゃなかったんですよ、と返した。もっと普通に、SEの音楽が流れていました。

彼女は尊敬しているアマチュアの絵描きで、彼等のかなりのファンだ。にわかリスナーの僕は彼女の誘いで今日、ここに来たのだった。彼女は既に同じツアーのほかの会場の公演を観に行っており、それでも今日のフロアにこだまする異様な喧騒に狼狽えているようだった。お互いに困惑とワクワクの入り混じった苦笑いを浮かべてマスクの上の目を見合わせる。じきに、異様な喧騒に重なるようにしてスタッフだと名乗る律儀そうな男のスピーチの音声が聞こえてきた。彼が名乗ろうとした瞬間に、遠くの化け物のような鳥の声がそれを遮る。

 

いつもは押すんですよ、彼等、仲は良いけど年中もめてるから。友人のアナウンスで開演時間よりも遅い開始を覚悟していたところ、唐突に会場の照明が暗転した。スマホを確認すると時計は開演時間1分前。押しどころか、寧ろ巻き気味に始まりそうじゃないか。

鳥の声、映画の音声、野生生物のざわめき。全てが少しずつ増幅され、混然一体となって暗転した会場に充満する。そうか、と僕は察した。今日は彼等にとってメジャーデビューを祝うツアーの千秋楽。特別な演出ってヤツなのだろう。今日の彼等の世界は、僕達がここに足を踏み入れた瞬間から既に始まっていたのだ。

人工的な喧騒に黙らされた僕達はただただ息を呑んで舞台の上を見つめる。増幅されていく喧騒はサイレンの音に変わり、ゆっくりと上がる白い緞帳の隙間からは青白い光が漏れ出してくる。舞台はライブハウスの舞台としては珍しく、映画のスクリーンのような形をしていて、無数の光の粒子が零れ出すように青白く染まった視界には、3つの大きな、大きな影が浮かんでいた。


 
バケモノみたいだ、と思った。

 

バケモノの影が蠢くスクリーンには、砂嵐の映像と共に「ワタシ ハ シンゴ」の文字が映し出される。1曲目の演目を推して知ったオーディエンスは一瞬で湧き上がり、割れんばかりの拍手を送った。既にアルバムを聴いていた僕も大きな拍手を送る。今回のツアーに先行してリリースされたメジャーデビューアルバム『ゴーストアルバム』のリードトラックで、楳図かずおのあの名作漫画を発想源とした楽曲、『シンゴ』だ。

演奏に合わせ、スクリーンには白黒の映像が流れる。寂びた鉄塔、漫画『わたしは真悟』のワンシーンを切り合わせたかのようなスクラップアート、MVの断片……彼等とも親交が深くMVも手掛けているPERIMETRONの所属ユニット・Margtが手掛けた映像に溶け込むかのように佇むメンバーの姿は未だ実在感がない。しかし――老婆のような、それでいて少年のようでもある小原綾斗の特異な歌声は、音源で聴くよりもずっと肉感があって生々しかった。

 

まるで猫だましのような薄明りの下で、AAAMYYYの目の下と藤本夏樹の耳元が蛍光色に光るのが見える。傍らでは骸骨のペイントが施されたボディスーツ姿のベーシストが陽気にドープな演奏を繰り広げ、彼等の演奏を底上げする。顔も勿論隠れており、完全にスカルだ。この骸骨男の正体は後に彼等のサポートベーシストをよく務めているBREIMENの高木祥太である事が発覚するわけだが、この段階では本気で何が起こっているのかわからなかった。身体の一部が蛍光色に発光するキーボーディストとドラマーと、骸骨のサポートベースがいるバンドだ。新手のホラーバンドである。

 

妖怪変化のお出ましに呆気に取られている間にバックスクリーンには巨大なバンドロゴが映し出され、夏樹の「こんにちは、Tempalayです!」という元気な挨拶が響き渡る……かと思いきや、これがただの録音データ。サンプリング音声になっていて、夏樹がパッドを叩く度に何度も同じフレーズが流れるのだ。「こんにちは、Tempalayです!」「こんにちは、Tempalayです!」「こんにちは、Tempalayです!」……気が狂うかと思う程連呼されるご挨拶がご機嫌なビートに変化し、彼等の名刺代わりとも言えるメジャーデビュー曲『EDEN』のイントロへと溶け込んでいく。音源よりもソリッドで殺傷能力の高いサウンドと、バンドロゴが蠢く砂絵に溶けていくような映像が絶妙な酩酊感を醸し出し、だんだんと目が回ってくる。特にインパクトが大きかったのはAAAMYYY のシンセ。原曲よりも強く前面に感じられて渦巻きのように脳味噌を侵食し、竪琴のように透き通った彼女の歌声の美しさと相反するように不気味だ。

原曲よりもかなりスローに演出されたアウトロでは地鳴りの如き低く太いドラムが鼓膜を突き破って内臓を揺らし、白い服のAAAMYYY と夏樹が徐々に砂絵に飲み込まれていく。ひとりだけ黒い服を身に纏った小原だけが奇妙に浮き上がり、極楽鳥の鳴き声のようなシャウトを響かせた。新手のホラーバンド、ここに極まれりである。

 

 

個人的な話になるが、僕が最初に衝撃を受けたTempalayの楽曲は、3年程前に聴いた『どうしよう』だった。

ファンタジックでシュール。不思議の国に迷い込んだ小原と愉快な仲間たちといった趣のMVも相まって、「なんだこりゃ」と思った。最初に「衝撃を受けた」だなんて月並みな言い回しを使ってしまったが、正直なところそんな劇的なものではなく……そう、この時の僕の感情は、紛れもない「なんだこりゃ」という驚きだった。

あの時に感じた「なんだこりゃ」が、この時、正に目の前で展開されていた。そりゃ曲が良いのは当たり前だ。多分この演出がなくても十分楽しめるライブだっただろうとは思うが、彼等の曲に触れ、アートワークにもある程度触れ続けた事により、ライブを観に行くまでの3年間という短くも長くもない時間の中で出来上がってしまった強固な“イメージ”が、ここまで完璧な形で舞台の上に“実物”として立ち現れてくるとは思わなかった。そしてその“実物”は、上質な舞台装置の上でその存在感を拡張し、耳から、そして目から脳味噌へ染み渡り、オーディエンスの意識をサイケデリックに染め上げ、躍らせ、酔わせ、めちゃくちゃにかき乱していく。

 

この日の演奏の中でも特に印象的だったのは、アルバムの予約特典としてアナログ盤が制作された未発表曲『フクロネズミも考えていた』だ。2018年リリースの『なんて素晴らしき世界』に収録されている『カンガルーも考えている』へ寄せて、夏樹が作曲、AAAMYYY が作詞を担当して作られたというこの楽曲は、通常盤には収録されていないのだがそれが勿体ないぐらいに凄まじかった。

豪雨のような大量のレーザービームに轟音のシンセやドラム、まるでシューゲイザーのような音像の中では小原のボーカルはいつものように前面には出ず、さっきまで身につけていたヘッドホンをかなぐり捨てたAAAMYYY がとろけるような、それでいて硬質な響きすら持ち合わせた歌声で主旋律を奏でる。「彼女は作詞を担当する際、今まで小原が書いてきた詞の中から言葉を拾い集め、小原が使いそうな言い回しを選んで詞を書いたらしい」とは同行の友人の言だ。

この曲では夏樹もコーラスを執るのだが、怒涛のような音の雨と共に曲がクライマックスへと向かう程に、3人の声が同ボリュームとなり混然一体に重なって、まるで別の生命体として、ひとつの人格を有するようになっていくのが圧巻だった。

 

 

公演の最後の方のMCで、ついさっきまで大舞台への照れ隠しのように親父ギャグのような事ばかり言ってAAAMYYY にやんわりツッコまれていた小原が、驚く程さりげなく、そして静かな口調で言った。

 

 

「皆さん生きていてください、そして適当に、幸せになってください」

 

 

もしかしたら、その後演奏された『大東京万博』の歌詞に引っ掛けたただの挨拶だったのかもしれない。しかし、この日の事を思い返す度に、僕はあの言葉を思い出し、そのシンプルな優しい響きに励まされていた。現在の情勢を思うときっとこの公演だって開催は危ぶまれたはずで、たとえバッシングに遭っても――当然、当日その場に赴いた僕達も含め――おかしくはない状況下で、それでも決行されたのは、もしかしたらこの言葉を伝えたかったからだったりするのかしらん、なんて思ったりもしたぐらいだ。

 

ライブも後半に差し掛かり、ついさっきまで極彩色のグラフィックアートやお化けのアニメーションが踊る映像が映し出されていたスクリーンが真っ白な静寂に染まった。控えめな照明に照らされた小原とAAAMYYY の影だけが、そこに伸びる。まるで夕暮れのアスファルトに伸びるようにくっきりとした輪郭のふたつの影は、幕が上がったあの瞬間に見たバケモノの影と同一人物のものとは思えない程に温かみを湛えているように見えた。

アルバムでも随一の、優しく歌を聴かせるスロウテンポな楽曲『冬山惨淡として睡るが如し』をふたりが呼吸を合わせて歌い出すと、夏樹と高木の背後から、やはり夕焼けのような橙色の光が伸びる。この瞬間、それまでライブハウスを満たしていた極彩色の空気は、まるで昇華されたかのように漂白された。

本編最後は『大東京万博』。アルバムの最後を壮大に彩るこの曲の演奏時、神殿のような光の柱に囲まれた舞台の上の彼等は、過去から現在、現在から過去へと行き来する東京の景色に溶け込み、完全に一体化しているように見えた。赤いレーザービームが、AAAMYYY と夏樹の白い衣装と揺れるスクリーンを紅白幕のように染め上げる。

大友克洋の名作漫画『AKIRA』をモチーフとして作られたというこの曲。MVには、様々な日本古来の土着の神を思わせるキャラクターが登場するのだが、白装束の巫子に扮したメンバーの姿が印象的なMVと地続きにあるようなこの日の景色は、なんとも不思議な感慨があり、何処か秘境の神事を見ているようで、厳かで、侵し難く、神聖だった。


不意に、古来より日本では妖怪や妖精のような“バケモノ”は、ある種八百万の神々と同義であった、というような事を思い出した。

 

 

正直に白状すると、彼等に出会った3年前は彼等の音楽を“西海岸の雰囲気漂うチルな音楽”という感じのイメージでとらえていた。ミクスチャーな音の面白さやサイケな“心地好い気持ち悪さ”は既に『SONIC WAVE』辺りから感じてはいたが、今程強烈ではなかったように感じる。


 ライブに行く機会は今の今まで逃し続けてきてしまったが、曲だけは折に触れて聴いてきた。時たま中毒性をもって欲しくなる、度の強い酒のような感覚だ。しかし、彼等の音楽は酒どころのものではなかった。少しずつ僕達リスナーの体内に蓄積され、そしてこのメジャーデビューの大舞台にて、急性中毒の症状を爆発的に生じさせた。

 

飄々としておりシャニカマで、時にセンシティブな青年の表情を見せる。簡潔な言葉で且つ物語性が高く、ユニセックスな響きの良い歌詞を独特な歌声で歌う。長年抱き続けてきたメインコンポーザー小原綾斗へのそんな第一印象を、彼は曲を出すごとに更新していき、そして今回のメジャー盤で軽々と超えていってしまった。

正直、以前の“西海岸うんちゃら”の時期の雰囲気の方が世間一般には受け入れられやすかったのではないかとすら思うが、しかし小原綾斗は変化し、それに合わせてTempalayも変化していった。――いや、“化けの皮を剝がした”と言った方が正しいのかもしれない。

 

「今回のアルバムは土着信仰のような神聖性を感じる」とは同行の友人の談だ。彼女が言いたかったのはおそらく、島国で四季があり、湿気の多い日本特有の、少し閉鎖的でじっとりとした神聖性だ。西海岸の青年達だったはずのTempalayは、僕如きが気づかないうちに、日本的なカルトを表現出来るバンドになっていたのだ。そしてそれは、日本人として日本で育ち、生き、培われた感性をカッコつける事なく、ごく素直に表現の土俵へ載せる事を意味する。弱さも気持ち悪さも異常性も懐かしさも、包み隠さず表へ出す。これは、己の内臓をぶちまける事に近い。

もしかしたらただ今の小原の、そしてTempalayとしてのマイブームが“それ”なだけなのかもしれない。しかし、よりにもよってメジャー1作目、ツアー1発目のタイミングでこの方向性を示してくるのは、計算ずくとしか思えない。


メジャーデビューする、という事は、活躍の幅が広がるという事だ。技術力も企画力も資金もそれまでと比べ潤沢になり、出来る事が増える。そんなお誂え向きのタイミングで、彼等はアミューズメントパークのように世界観を作り込み、彼等の音楽への中毒症状を少しずつ起こしつつあるリスナーを一堂に集め、これまで隠していた(のかもしれない)内臓の中身を、満を持してぶちまけたのだ。そこから立ちのぼるエアロゾルは、中毒症状を引き起こすのに充分過ぎた。

 

いわゆる“大物”の事を“モンスターバンド”だなんてよく言うが、ライブの動員がどれ程多かろうが、CDがどれ程売れようが、それはただ数字のデカさが“バケモノ”なだけだろう。本当の“バケモノ”ってのは、彼等のような存在を言うのだ、と思った。

 

 

『大東京万博』に続いて、アンコール代わりとして披露されたのは『そなちね』と『Last Dance』。僕は『そなちね』の、不穏でありながら哀しくも包容力に満ちた世界が、MVも含め大好きだった。

彼等の後ろのスクリーンには、揺れる薄衣の映像が映し出されていた。その向こうには、うっすらと赤い光が透けて見える。まるで染みた血飛沫のようなそれは、サビで夏の青空のような色に染まった。陽の光のような、淡い白の照明。なんだかまるで、真っ白なシーツを被って“お化け”のふりをしている“誰か”から見えている世界のように見えた。

 

どんな悲劇をも包み込むような優しい小原の歌声と、その奥に隠された弱さを体現するかのようなAAAMYYY のコーラスが空間を満たす。アウトロに重ねた小原の絶叫の狭間に、無限の感情のグラデーションが見えるようだった。

 

揺れる薄衣は最後にはずれて外の景色が見えるのではなく、全て真っ白にホワイトアウトしてしまった。それは、瞼の裏の闇のようにすら見える。

『そなちね』のMVが公開された時に、PERIMETRONの佐々木集が記した言葉を思い出した。


「どんな街に生まれてもどんな境遇でも 自分の世界にのめり込めるやつは美しい」


ままならない事ばかりのこの世界で、ままならない事ばかりのこの国で、彼等は確かにこの時、メジャーデビューの晴れ舞台を踏んだのだ。その覚悟は、きっと僕達なんかには想像し難いものだ。この時、僕の目の前に確かに存在していたバケモノ達は、どこにでも行ける神出鬼没のお化けではなく、地縛霊のように今、ここに地に足をつけて生きる“お化け”なのだと思った。本当にお化けなら足なんてないけれど。そう思ったらなんだか、今まで感じていた以上に、彼等の事が愛おしく思えてきてしまった。

 

 

アルバムの1曲目に収録されている、祭囃子のようなインタールード『ゲゲゲ』に送られながら、なんだか早く来た盂蘭盆会の祭りの帰り道のような気分で会場を出る。駅へ向かう通路からは、霧に霞んだ飛行機の巨体がうっすらと見えた。役目を奪われた巨大生物の死骸のようなそれを横目にしながら、それでも、と僕は思った。

それでも、ここで生きていくしかないんだもんな。たとえ今は遠い国や見知らぬ街へ飛んで行けなくても、少なくとも今日は、ここまでは来られたのだ。

今日はここで、彼等があの不気味で心地好い世界を見せてくれた。たとえ今はここから何処へも行けなくても、それだけでなんだか明日も生きていけるような気がしていた。

 

 

 

■参考資料

Shu SasakiのTwitter



■関連情報

文章の流れの都合上こちらのMVは省いたのだけれど、ついでなので観ていってくれ



 

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