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来世で待っててくれないか

◼にんげんっていいな

息を殺して立派な社会人に擬態する一週間がやっと終わった。変わり映えしない乗り慣れた金曜日の都営地下鉄に乗り込み、車窓に映った己の顔と対峙する。
青白く生気のない頬。化粧の剥がれた目元はミイラのようでいて、その瞳の奥の光は異常にぎらぎらと光っていて、我が顔面ながらアンバランスの極みである。怖い。

端的に言って、疲れきっている。だからと言ってこのまま、駅前に巨大なドンキホーテと民度の低いサンマルクカフェぐらいしかないような東京の端っこの場末の街に帰るような顔でもなかった。

家に帰りたくない。このまま、夜のぎらぎら光るネオンの森の中に迷い込んでみたい。目だけがそう訴えてでもいるかのような表情。しかしそれが単純な好奇心やリビドーによるところではない事も僕は知っていた。静かに車窓の己から目をそらし、扉のすぐ横にある手すりに寄りかかるようにして立った。たちくらみがひどい。

家に帰っても美味しいおやつもなければぽちゃぽちゃお風呂も用意されていない。ほかほかご飯は母親が作っていてくれる可能性が高いが、もしかしたら私が作らなければいけないかもしれない。いいないいなにんげんっていいなとはよく言ったものだが、森のこぐまの方が余程幸せな家庭を築けているのかもしれない。

退院したばかりで体力の回復を待たなければいけない状態だと言うのに、そんな自分の身体を思って折角妻が作ってくれた料理に、私の父親はすぐにケチをつける。口を開けば思春期の息子のようにクソババア黙れうぜえんだよと悪態ばかりを吐く父親を、母親は裏で口汚く罵りながらももう十年以上も世話し続けている。

「にんげん」に擬態しながら働く私を家で待っているのは、態度と口と性格の悪い父親と、いつもなにかに苛立っている母親だけだ。



◼結婚は人生の墓場だと昔の人は言った

父親は、私が中学生の頃から失踪癖を隠さなくなった。

昔から、少し仕事が嫌になったりした時に姿をくらます癖があったとかつての同僚の方から話に聞いた。そんな事とはつゆ知らず父親と結婚した母親は、あんたが小さいうちはよく働く良いお父さんだったのにねえ、と溜め息を吐く事数多である。

父親を探して真夜中まで都内を駆け回った経験すらある。じきにそんな現状にも慣れてきて、ひと月も放っておけば勝手に反省したような素振りで帰宅し、また数ヶ月も経つと仕事帰りに姿を消すのが、私の中での「お父さん」の当たり前の姿になっていった。

失踪する度ギャンブルに走り、借金をこさえては連帯保証人欄に母親の名前を書く父親を、母は見捨てなかった。

こう書くと良妻賢母の鏡のように思えるかもしれないが、元バリキャリの生粋の江戸っ子である母親は決してそんな慎ましく大和撫子な妻ではなかった。
甲斐性のない父と年中口喧嘩し、世間話のように父の悪口を思春期の私に聞かせた。

ある日またひと月程の放浪を経て帰ってきた父親の腹が、まるで臨月の妊婦のようにパンパンに張っていた。遂に何か悪いものでも食べたか、と眉をひそめながら病院へ連れていくと、肝機能の異常によってお腹に水が溜まっている、と診断された。

肝臓ガンだった。

元々大酒飲みだった上に、失踪している間の生活の不摂生が祟ったのだろう。ざまあみやがれ、と思った。

数ヶ月に一度はいなくなっていた父親が、数ヶ月に一度は入院しなければいけない病人になってしまった。すぐに生命に関わるような病状ではないが、入退院を繰り返しているので無論仕事なんか出来ない。既にヒモ歴十年以上になる父親は意に介さないようだが、私はあと一年で卒業だった大学を中退して働く事にした。

嫌いだ嫌いだと言いながら、母はフルタイムでのパートを既に十年以上続けている。その上栄養管理が必要な父の食事の献立も考え、その献立にいちゃもんをつける父親と年中やり合っている。

この態度のでかい病人と、いつも疲れた顔をしているオンナの間に自分は生まれたのか。

そう思う度とめどない憂鬱に苛まれてリビングから部屋の片隅に逃げ込んだ。

ひとの幸せを祝えるだけの心の余裕と良識はあると思う。友人なんかが将来は幸せな結婚生活が送りたい、などと言っていても、その夢を壊すような野暮な事は言わない。実際に結婚をする事で幸せな人生を歩んでいるひとも大勢いるからだ。

祝福したい気持ちはあるけれど、自分は祝福される事を望みはしない。

昔の人はよく言ったもので、「結婚は人生の墓場である」と言う言葉すらあるわけだが、確かに私は生まれてこの方ゼロ距離で墓場ばかり見せつけられてきたのだ。DNAレベルで刻み込まれた愛と憎しみのクローズアップマジック。そのタネにふたりの愛を見い出せと今更仰られてもアウトオブ人生である。

私にとっての「幸せ」のイメージから、結婚、そしてそれに伴う出産や、その前段階であるセックスが除かれたのは記憶にない程前だ。私は日頃いわゆる「普通の女性」として生活しているが、経済的にも精神的にも勿論肉体的にも、オトコなんかに頼っても幸せになんかなれない、と十代のうちに身をもって感じ入ったのだった。何せ母親は私を産んでから専業主婦になる気満々でいたと言うのに、ダンナがあの甲斐性なしだった事によって還暦を過ぎる今まで働き続ける事になったのだから。オトコに幸せにしてもらうつもりで結婚するだなんて愚の骨頂である。

だからと言って、自分が男役として誰かを「幸せにする」方の役割を担うのも、なんか違う。と言うか、単純に今の経済状態では無理だ。今後年老いゆく両親をひとりで抱え、養っていかなければいけないひとりっ子の私では、相手へかけてしまうかもしれない負担の方が自分自身の経済力や責任感よりも大きくなってしまう。

私は誰かに頼る事もできなければ、幸せにしてあげる事も出来ない。



◼バンドマンに恋をしている

そんな私も、一人前に誰かを恋しく思う事はある。

相手はバンドマンだ。特に、自身で曲を作り歌詞を書いて歌をうたうボーカルが好き。弾いてる楽器は問わない。なんならハンドマイクで歌ってほしい。いわゆるソングライターだとかバンドのメインコンポーザーと言われるひとが、私はなんだかどうしようもなく好きなのだ。

ここでは特に誰とは言わないが、今まで創作においても人生観や倫理観などにおいても、影響を受けてきたバンドボーカルは少なくないが決して多くもなく、そしてそのひと達全員に恋焦がれ続けている。最早バンドボーカルと言う概念自体に恋をしていると言っても過言ではない。まあ、作風が好みか否かが第一義なのは大前提だけれども。

こう書くと、一見ライブハウスによくいるワナビーバンドマンの恋人な女子みたいだが、そうではない。繰り返すようだが、結婚やセックスを前提としたいわゆる「恋愛」は、私にとっての幸せではないからだ。

些か性嫌悪のケがあるように思われかねない恋愛観だが、普通に幸せな恋愛の空想やエロい妄想もする。でもその内容は専ら次の二種類に限られている。

一、「今恋をしているバンドボーカル(複数)の魅力を凝縮したような“理想の恋人”とただただひたすらいちゃつくだけ」
(これの内容はここではなかなか書くのをはばかられる感じのアレなので素直にはばかっておくが、私の良識の範囲内で申し上げるならば基本的なノリは男性向けエロ漫画でありながらいわゆるフィニッシュ的なサムシングはない、実に罪のない妄想である。因みに私の方が男役)

二、「惚れているバンドボーカルと同じバンドのメンバーになって一緒に時を過ごす」
(実はこれの方がヌケる)

二に至っては一切エロい要素もなければ恋愛の妄想でもない。しかし私はこの空想に異様な昂奮を覚え、最早性的嗜好と申し上げても差し支えないレベルに脳内醸成している程だ。

憧れのバンドマンの恋人や伴侶になりたいと思うのも、立派な恋心だと思う。まあ基本的には叶わぬ恋である場合が多いだろうし、現実と虚構の狭間を自分で見極めて憧れのあのひとに迷惑さえかけなければオールOKだ。

だけど、たとえ本当に恋人になれたとしても、彼/彼女の夢と大義を、あなたは裏側から支える事しか出来ないのだ。夢に生きるあのひとと同じ夢を抱き、行動を共にし、共に挑戦し、共に涙し、共に惨めな想いを噛み締め、共に悦びを感じるのはあなたじゃない。私でもない。

それが出来るのは、彼/彼女の仲間達だけだ。

ロックバンドはいわゆるひとつの運命共同体だと私は思う。夢と芸術に生きる彼/彼女が音楽と歓声に満たされたライブハウスと言う大海原を、自由に活き活きと泳ぐ様をゼロ距離で見つめ続けられるのは、この世で唯一バンドメンバーだけだ。そこには命の輝きに満ちた水面がある。私がこどもの頃から、ずっと見せられ続けてきた墓場とは比べ物にならない。

バンドマンやミュージシャンのみならず、芸術家や作家は誰しもそうだと思うが、作品づくりと言うのは魂を削る作業だ。精神的にも肉体的にも消耗は激しい。そんな、魂を削って鳴らす音や歌声を、自分以外の誰かと――気の置けない誰かと、呼吸を合わせ視線を絡ませ、がっちりと重ね合わせる行為は、どんな愛の囁きや交接よりも余程エロティックでロマンティックで、そしてとても美しいと思った。



◼もしも願いが叶うなら

電車がトンネルを出た。デカいジョナサンのピンクの看板がやたら目立つ田舎街の道路が見える。私は縋りつくような心持ちでイヤホンを耳に挿す。

ジャックを通って聴こえてくる聴き慣れた音色は、私の胸の奥の悶々とした想いを、汗と涙で湿った指先で優しく慰めた。

電車が再びトンネルに潜り込む。そろそろ最寄り駅に着いてしまう。私はケイタイを操作して音を止める。

もつれる足を気にしながら、ホームドアをすり抜けた。

今、恋をしているバンドボーカルの中のひとりが、なにかのインタビューで来世は女の子に生まれ変わってみたい、と言っていた事を思い出した。よくある回答だけれど、彼の佇まいや歌声のイメージも相まって、なんだかとてもどきどきした事を覚えている。

いつか、本当にあなたが美しい女性に生まれ変わったなら。そして、私にもまたあなたに出会える権利があるのなら。今度こそはあなたを幸せにできるだけの誠意と甲斐性のある立派な人間に、生まれ変われているだろうか。

それとも、来世で女性になっても歌っていたいと語るあなたと同じ夢を追う、頼れる同志になれているだろうか。

今の私の願いが、ひとつだけ叶うのならば。

どうか、来世で待っててくれないか。

かねてより構想しておりました本やZINEの制作、そして日々のおやつ代などに活かしたいと思います。ライターとしてのお仕事の依頼などもTwitterのDMより頂けますと、光の魔法であなたを照らします。 →https://twitter.com/igaigausagi