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いい方法がなんとなくでしか伝わらない理由 vol.654
学校現場から飛び出してさまざまな実践報告などを聞いていると、「すごいな〜」と思うことや、「これやってみようかな」と思える実践がたくさんあります。
しかし、そういったいい実践であったとしても多くの場合、現場に簡単に降りてきたり探したときに出てくることは少ないです。
たとえ、調べたりしたとしてもそう言った取り組みにはよっぽど運が良くないと出会えません。
出会いないのにはれっきとした証拠がないから、証拠がないのは証拠をつくらないから。
今日はそんな教育現場での実践について考えていきます。
難しいのはデータ収集
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まず、どんなにいい実践でも、その中でデータをとっていること、また、データが取れるような実践であるかは別です。
教育というのは非常に主観的な評価が多いために、誰にも使えるような抽象化された論文やレポートという形にするのは非常に難しいのです。
例えば、一年生の時はほとんど成績が取れなかった子が、二年生で優等生になるというのは、子どもたちにもよくあることです。
しかし、それは担任の先生の技量なのか、本人の意思が変化したのか、生活環境が変わったのか、学習分野の得意不得意なのかは、はっきりとしません。
そのいろんな要素が混ざり合って、結果につながったのでしょうが、それらを数値化したりするのは、取るべきデータ量が多すぎる上に資料は少ないためにほぼ不可能になってきます。
そのため、ほとんどの教育論文というのは、学級や学年といった、ある小集団を対象としているものがほとんどです。
いいとこ取りのデータと思い
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それに加えて、厄介なのが先生たちのプライドの高さです。
ほとんどの場合、世の中に姿を現す実践はその多くが成功体験になります。
失敗をわざわざ共有して抑止力にするという考え方よりも、自分の輝かしい結果を共有して自尊心を高めることの方が優先されてしまうのでしょう。
現に私も同じく、失敗というのはなかなか共有するのが苦手です。
自分の抵抗力を表現していると勘違いする方が多いのです。
ただ、実際その報告を見る際には、事実として見ることのほうが多いので、誰がどうってのは気にしないんですけどね💦。
いろんな人がやるけれどもさ
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もう一つの悲しい構造的な欠点。
いろんな敏腕者がいろんなところでさまざまに取り組みをしているのに、広がっていきません。
これはやはり、共有をするためのプラットフォームがないことに起因すると考えられます。
いいものがあっても、どこに共有すれば全員に伝わる❓
そんな媒体がないからこそ、うまいこといいものが広がらないのではないでしょうか。
とは言え、そのおかげで負荷がかからず助かっている教員もいるんでしょうね。
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