見出し画像

『友情』恋と呼ぶか愛と呼ぶか vol.296

今回の読書会のテーマ本は、『友情』。

古典文学でありながらも、恋愛の人の心理状態を描いているため、現代のわたしたちでも理解をしながら読み進められる内容です。

愛や友情、正義といったものは抽象度が高く、読み手にその解釈を委ねられますが、この作品も同様に自分自身の人生観などと重ねて読むことで面白みが増す本だなと感じました。

この本を読んで、そしてこの本の読書会を通して感じたことを書き記していきます。

なんともいえないもどかしさと気持ち悪さ

この本を読んで、私が最初に感じたのは前半部分の気持ち悪さと、後半部分の潔さです。

この本では、主人公の野島が杉子に恋をしてそれを、親友の大宮とそのいとこの武子が応援していくという図で話が進んでいきます。

武子と杉子は同じ学校です。

野島は杉子という女性に理想像を移して、完璧な女性であるかのように思い、杉子がすべての生活を送ります。

一方で杉子はそんな思いなど一切気づかず、大宮に恋をします。

大宮は大宮で、杉子の素晴らしさに惹かれつつも友情を大事にして、野島を応援し続けます。

そんなやりとりがひたすらに続きていく前半部分。

私は気持ち悪さを全面的に感じていました。

それぞれがそれぞれの思惑の中で動いてはいるものの、そこにあるのは愛の幻想。

愛だと思い込んでいる恋愛話。

だからこそ、変な違和感を感じていました。

そもそも、相手のことをろくに知ってもいないはずなのに、なぜそこまで野島は杉子のことを好きだと言い続けられるのか。

大宮も大宮で、友達とはいえ自分自身も気になっている女性に対して、自分の気持ちを押し殺すような形で冷たい態度を取る。

杉子は杉子で、そこまで好かれているのに対して全く気づかない。

いやぁ、なんかもっと違う関わり方を選ぼうという選択肢はないのか?

そう終始感じていました。

恋と愛の違い

おそらく、そこに対して感じていた違和感の正体は、私の恋と愛に対する価値観の持ち方によるものです。

私にとって恋愛とは一種の遊び、娯楽。

そう聞くと人聞きは悪いかもしれませんが、要は「結婚を前提に」の文言がない感情はすべて恋愛、恋だと思っているのです。

一方で愛とは、相手のことを分かりきっている状態で、嫌な部分も受容していける関係のこと。

愛=結婚のイメージもあるかもしれません。

これが私の中での感情なので、野島は感情はこの2つが勘違いして共存しているように感じました。

相手の表面的な部分しか理解していない、恋愛的な関わり方なのに、本人は愛と勘違いをしてしまっている。

この恋と愛との違いや摩擦を理解しようとせず、認識しようとせずに進んでいる感じに違和感を私は感じたのだと思います。

感情や想いの爆発

一方で後半部分の公開された手紙の部分。

ここは、人間的にも共感して引き込まれる部分がたくさんありました。

人としての思いや感情が爆発し、入り乱れている状態。

大宮と杉子の感情が初めて表立って書かれる場所です。

ここまでの間主人公として描かれてきた野島の描写がないにもかかわらず、野島に共感してきた前半部分があるから、自然と野島の心の動きも気づけてしまう。

そんな面白さがありました。

これまで勘違いしていた恋と愛について3人が向き合う瞬間です。

しかし、その中でも野島は一歩抜けていたなと感じたのがこのシーンでした。

野島はこれまで恋を愛と勘違いして生きてきました。

しかしそれが打ち砕かれたことによって、愛は成就せず結局は自分の恋であったことに気づくのです。

逆に杉子と大宮は見せかけの恋に囚われていってしまうのです。

誰がどう正しいのかというのは、その人本人のその後の行動によって変動してくるのかと思いますが、おそらくこのあと最も成長していくのは、全てを投げ打って仕事に専念できた野島の方でしょう。

向き合ったからこそ、その先の成長に巡り会えた。

友情と愛について、考えさせるとてもいい名著でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?