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『愛がなんだ』愛はなかった!? vol.244

以前、感想を書かせてもらいました『愛がなんだ』についての映画会に参加しました。

映画界はまるでケーキの後のコーヒータイムのような感覚です。

映画はついついその見た目で満足してしまいますが、食べることでその味を楽しめます。

さらに、その味をどのように表現しているのかを考えることでさらに深みが増します。

映画はケーキを楽しむようにみて、映画会を通すことでそれら全てを味わった上でのコーヒータイムを楽しめます。

以前映画を見た時は、愛や恋、好きについて、そしてその先にある幸せについて考えました。

今日の映画会をもってまたさらに、考えが深まったと今まで意識していなかった部分に改めて注目できたのでまとめたいと思います。

依存と自立

この映画の中で登場人物はみんな依存をしています。

テルコはマモルへ、マモルはスミレさんへ、仲原くんは葉子へ、葉子は自分に依存してくれる人へ。

そして、それぞれの依存と自立のバランスがぶれながらも物語は進んでいきます。

最後に完全に依存から脱却し、自分の芯を持って自分の夢にチャレンジしていったのは仲原くんでした。

彼が幸せになったのかどうかは視聴者の想像に任せられていますが、彼は自分から自立を掴みにいったのでした。

ある意味では最も茨の道を進んでいます。

しかし、その分自分の夢に振り切って向かっていくだけのエネルギーも手に入れたのでしょう。

示唆が高くなったことで、当然女性関係ももっと発展していくはずだと思います。

一方、マモルはスミレさんに依存したまま。

でも、自分のしたことはしっかりと向き合って、スミレさんと一緒にいます。

テルコは自分なりの愛を表現し続けています。

葉子は最終的に仲原くんの元を訪ねます。

葉子こそ、実は1番の依存体質だったのかもしれません。

依存が完全に悪なわけではありませんが、依存に溺れてしまえば自分の首を占めることになります。

依存は自分では気づけないからこそ、厄介なのかもしれません。

人の物語には過去も未来もある

この物語は基本的に過去の回想は全くと言っていいほどありません。

ずっと今が描かれて進んでいきます。

だからこそ、その時々の人間関係や感情に目がいってしまいがちですが、そこにストップをかけるのが温泉に現れた幼少期のテルコなのかもしれません。

幼少期のテルコは、今のテルコとはちょっと異なります。

今のテルコよりも理性を持って話しているようにさえ感じます。

そう考えると、テルコの過去から今へどのように成長してきたのか。

どうして、ここまでの依存体質になってしまったのか。

そして、これからのテルコはどうなっていってしまうのだろうか。

そう言ったことを考えられるとこの映画さらに深みを増してみることができます。

どの登場人物にも過去も未来もある。

未来については、ご想像にお任せといった形で映画の最後に思わせを残してくれていますが、実は過去にこそこの映画のような物語ができるストーリーがあるのかもしれません。

結局のところ愛はなかったのか

では、この映画の中に愛は存在したのでしょうか?

タイトルには、愛がなんだとありますが、私はこの映画の中には一度も愛は表現されていないと感じました。

強いていうのであれば、スミレさんがテルコに話す場面、テルコが先頭で先輩に話してもらう場面でしょうか。

でも、その場面さえも私にとっては愛とまではいかない思いやり止まりのように感じます。

この映画の本質は愛を描くのではなく、愛を考えさせる部分にあったのかもしれません。

私たちはよく恋と愛の違いについて話します。

恋は落ちるもの、愛は育むものとかっていったりしますね。

この映画では一度も育まれていませんね笑。

しかし、見返りの求めないテルコの行動は愛の結晶なのかもしれません。

そんなような思考の循環を楽しめる恋愛映画という名の人生映画でした。

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