『余命10年』生への執着と死への覚悟 vol.683
もし、自分の余命があと10年と言われたらどうしますか。
治るかもしれないと微かな希望を見せられたらどうしますか?
そんな起きることはないだろうと思っているけど、十分にあり得なくはない自分の命、そして必ずしも迎え入れなければならない死というものについて考える映画でした。
『余命10年』をみての感想を書いていきます。
辛いのは生きている方か死ぬ方か
作中で最も印象に残った言葉はこれでした。
家族が茉莉の病気をなんとか治せないかと悩んでいる中、茉莉はどうしようもない自分の体に嫌気を覚えつつあり苛ついていました。
そんな感情が互いに分断されつつある中で茉莉が口にした言葉。
なんとひどい言葉と思うかもしれませんが、私もこの言葉にはとても強く共感できます。
例えば身近に自殺をしようとしている人がいる場合、どうでしょうか。
私も友人を自殺によってなくしていますが、果たしてどちらが辛いのかと問われると難しい部分があります。
残された私たちは生きる間ずっと悲しみのなかで過ごします。
しかし、もしかしたらそれ以上にどうしようもなく辛く、死という道しか選択肢がなかったのかもしれません。
そう考えると、実際に死に直面している者と、その死を間近で感じた者どちらが辛いのかは決めきれないのではないのでしょうか。
最後の時間は自分のために?相手のために?
最後、茉莉と和人はスノボへと旅行をしにいきます。
病気によって、体を動かせないのに何故かスノボです。
これは、和人が行きたいとおしたのではなく、どこかこれを最後にしようと茉莉が勧めたようにも感じます。
では、この旅行を最後に、死を間近になるまで会わなくなった2人の選択は正しかったのでしょうか。
確かに、和人は自分の店を出そうと決心をし始めた大事なタイミング。
しかし、相手の病気は治らないと分かってしまった。
もし、自分が同じ状況なら自分の夢や目標を遅らせてでも一緒にいる時間を作るかなとも思いました。
しかし、それはもしかしたら互いにとっていい結末は上手ないのかもしれません。
茉莉はそれを望んでいないし、茉莉が死んでしまったあと果たして和人にそこまでの気力は残るのか。
生きている間に必ず自分は平気だぞという姿を見せたいという和人の思い出もあったのかもしれません。
生きるとは何か死ぬとは何か
生きること、そして死ぬことを考えさせられました。
私たちは自分のために生きているようで自分1人で生きているわけではない。
私たちは誰かのために生きているようで、誰かのためだけに生きているわけではない。
互いにどこか必要な部分をもらいながら、与えながら生きているのです。
それを助け合いというかどうかは人それぞれ。
私はそれこそが人間の生き方なのかなとも思いました。
そして、皆共通して恐る死という存在。
それも近くなればなるほど、どこか迎え入れる心の準備もできていく者なのでしょうか。
実際に当人にならないとわからない。
それでも考え続けることがきっと大事なのでしょう。
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