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『友情について』自分にとっての理想の友情のあり方とは vol.625

ずっと残り続けている名著『友情について』。

哲学本でもありなかなか難読本かも知れませんが、残り続けているのはそれなりの価値があるからこそです。

今日はこの難読本から読み取る私の友情観を考えていきます。

自分が先か、友が先か

キケロの言う友情、友達というのを簡単にまとめると実に単純です。

類は友を呼ぶ。

要は自分と同じような人が自分の周りのつながりにはできやすいと言ったもの。

つまりそれは自分自身が磨き続けていれば、当然同じように自分を磨き続けるような友達ができ、怠けていれば怠けているような友人ができるというもの。

だからこそ、いつしか現れる自分が心を許し切れる友と出会うために徳を積み続けなさいといった話でした。

しかし、そうは言っても友達としてある程度関わらなければ相手がどんな人なのかはわかりません。

では一体どちらが先なのでしょうか。

自分の徳を積むのが最重要項目なのか、友達を作っていくのが優先事項なのか。

おそらく同時にやり続けるのが最適解だとは思うのですが、それでも私は先はやはり徳を積む方にあると思います。

逆に自分が自分を高めていく意思を放棄した時点で、いい友達、友情など生まれないと確信しているからです。

人生の最後を想像し

自分の人生の最後を想像して見ると、自分がどんな人生を歩んでいきたいのか、生き方やあり方が見えてきます。

私の思い描く理想は湖畔でゆったりと椅子に揺られながら、自然の音を聞き、本を読んでいる姿です。

一人ゆったりと時間の流れを気にせずに過ごすというのが私の理想の未来のあり方でした。

死に際も同じかも知れません。

誰かにそばにいて欲しいという思いもそこまで強くはありません。

むしろ、安らかに眠っていくのであっても、苦しんでいくのであっても誰にも見られずにそっと息を引き取りたいなと思います。

だから、私にとって友情とは最後の最後まで共にというイメージよりかは、自分の必要な場面、鼓舞したい場面で共に称え合える成長とイコールなのかも知れません。

讃えあう高めあう友は、いま重要

そう考えると、そんな友情は私の中では今すでに欲しいものとなっています。

むしろここに数年間ずっと飢えているのかも知れません。

同じ目線で物事を見据え、挑戦をしていきたい。

ここにばっちしと当てはまる誰かがいる時に、友情を感じるのかも知れません。

どこまでも深いつながりを持てと言ったようなことをキケロは本書にて説いています。

しかし、それ全てが友情ではないかも知れません。

現に、キケロには友情を感じる友がいたかも定かではありません。

友情論として書いたというよりかは、説得のためにこの本を書いたという説もあるくらいですから。

私の中の友情は、互いに高めあい想像していける仲間との間に発生するもの。

これが私の『友情について』です。

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