【ネタバレ感想】劇場版モノノ怪〜唐傘〜

 感想を書き始める前にことわっておきたいことがある。この記事を書いている僕は遺伝的にも性自認も男性ということだ。このご時世そんなことはナンセンスなのは百も承知だが、僕にはこの映画でどうしても理解出来ないことがある。そして理解出来ない原因が僕が男性として育ってきたからなのかどうかを知りたい。だから時代錯誤と思いながらも僕以外の男性がどう見えたのか、女性にはどう見えているのかをコメントして貰えるとありがたい。

 この映画を見て僕がどうしても理解出来なかったのは、カメに対するアサの感情だ。僕から見たカメという人物は純真というより性悪だ。他人の優しさにつけ込み、役割を放棄し、やりたいだけやって、失敗したら他人に責任をとらせる。そこに悪意がなかろうと、いやむしろ悪意がないからこそ真性の性悪に見えてしまう。アサがカメの純真さを失わないように、大奥という場所に染まらないよう守りたいと考えていたのはストーリーから察せられる。でもアサに対してどうしてそう思ったのか、そう思わせるほどの美徳がカメにあるのかが僕には分からない。映画の尺の都合でカメの良いところが描けなかっただけなのか、それとも僕の人間力が足りなくてカメの魅力に気付けないだけなのか。

 ここまでカメというキャラクターについて色々書いてきて、じゃあこの映画はNot for meだったのかと言うとそうでもない。むしろ大満足というか、ただの大満足じゃねえぞド級の大満足、ド大満足だ。という特に意味のないドリトライ構文を使いたくなるくらい好きな映画だ。
 大奥では覚悟を試す為に大事なものを捨てるという描写が心にクる。捨てられていた“物”は櫛や万華鏡や鞠、人形という当時の価値観で女性らしい物ばかりだ。作中でも語られていた通り天子(現実における将軍)と夜を共に出来るのは原則として御中臈8人の中の誰かだけだ。つまりその他の女中などは子供を産むという当時の価値観における女性の役割を放棄することになる、繰り返して言うがこれは僕の意見ではなく江戸時代当時の価値観における女性らしさや女性の役割のハナシだ。そしてこれは大奥と女性に限ったことではない「オトナになったんだからゲームなんてやめなさい」とか「社会人なんだから漫画ばかり読んではいけない」という社会に出る上で“大切なナニカ”を捨てなければならないという圧力はこの令和の世の中でも未だに存在する。
 そしてお水様に捨てられていたのはそれだけではない。あの不気味な井戸の底に沈んでいた人々は“やたら気に入られていて目障りなモノ”や“自分の出世に邪魔なモノ”として捨てられたのだろう。でも捨てられたニンゲンは唐傘というモノノ怪にはならなかった。ただ邪魔“モノ”あるいは障害“物”として捨てられただけだから。しかし、最後に北川が他ならぬ“自分”を捨ててしまった。人には情念が宿る、その情念が唐傘となったのだと僕は思う。

 妖怪としての唐傘おばけの実態はよくわかっていない。妖怪絵巻には説明のない絵と名前だけの妖怪も描かれている。唐傘おばけもそんな妖怪の1人で具体的な伝承は残されていないとされる。ただ付喪神の一種として「捨てられた(忘れられた)傘」が元になっているというハナシもある。東方Projectの多々良小傘もそうだ。
 この映画でも唐傘は捨てられたモノから生まれたモノノ怪として描かれている。しかし子供に「物を大切にしなさい」と教える為にそうしているのではない。この映画は邪魔だから目障りだからと身の回りのナニカを切り捨てている内に、一番大事な“自分”も捨ててしまうかもしれない、もっと自分を大切にしようというメッセージを送ってくれているのだと僕は思う。

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