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憎しみと不義とは即ち、愛と正義とである。

人を傷つける行為を突き動かすのが愛と正義でなければ、ずいぶんと平和な世界になるだろうに。

誰しもが、愛を全うしたいし、正義を貫きたい。
愛や正義に反した悪を進んで行う者なんて、いない。
もしも、或る人にとっての不義が別の誰かにとっての正義や愛でなかったならば、それを「正す」ことは簡単だ。憎しみや争いはこんなに多くないし、こんなに根深くもない。
手のひらに置かれた正義のコインの裏側は、そちら側から見つめる誰かにとっての不義の顔である可能性が、大いにある。そんなことばかりだ。

だから、愛も正義も、ふりかざすものではなく、寄り添うものでなければならない。
寄り添うには、力が必要だ。その力とは「豊かな教養力・観察力・想像力」

例えば、この文章に目を走らせている今、コインが踊る舞台として、民族紛争・政治・師弟関係・恋愛…、と、様々な対象を巡るのが想像で、それぞれの舞台の大きさや、巡る舞台の数を増すはたらきをするのが、教養だ。さらに例えると、その想像と教養の総動員の中で、他人である私(筆者)という人間が体験しこの記事を書くきっかけとなったものを、より具体的に絞り込むときに、観察力が大手を振るう(この場合はあなたが直接の知人でない限り、私が文脈を語らないと不可能だが)。さらに最も重要なこととして、観察を認知でとどめることなく、共感することもまた、豊かな体験に裏付けられた教養力と、日頃の観察からなる想像力の成す業だ。

平和とは、正義を集約させることではない。
平和とは、愛と正義を尊重すること。すなわち、どれだけ豊かな教養力・観察力・想像力を備えているか、その集結の先にある。

▼この記事でいただいたコメントから書き足したものです。
https://note.mu/ifname_i/n/n334f96372243

2018年2月6日に前のブログで書いたものをそのまま掲載しました(ので前から読んでくださっているかたは見覚えがあるかもしれません)

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