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「おいしいおかゆ2」🕯️見たこともないものを信じてもらう

「おいしいおかゆ」のおはなしの続き。
まず、おいしいおかゆのあらすじをです。

・貧乏な女の子が森でおばあさんからお鍋をもらう(起)
・お鍋でおいしいおかゆを食べられてひもじくなくなり幸せになる(承)
・お母さんが止め方がわからずおかゆが町中にあふれ出す(転)
・女の子が帰ってきてお鍋を止めて収まる(結)
でも、この町に帰ってくる人たちは、自分の通る道を、ぱくぱく、食べて、食べ抜けなければなりませんでしたとさ。

東京子ども図書館「おはなしのろうそく1」より あらすじを紹介

「おいしいおかゆ」のタイトルにもある「おかゆ」
テキストでは「とてもおいしいキビのおかゆ」とあります。

私は「キビのおかゆ」を見たことも、食べたこともありません。

この「おかゆ」は、とてもおいしいものでなくはなりません。

ふたりは、いつでもすきなときに、おいしいおかゆが食べられて、ひもじいおもいをすることはなくなりました。

「おはなしのろうそく1」より そのまま一部抜粋

おかゆをいつでも食べられて幸せになるのですから、「おいしいおかゆ」でなければなりません。
聞き手に「おいしいおかゆ」であると感じてもらわなければなりません。

おはなし仲間で話が出た時に
「キビのおかゆを今は売ってるよ」、と。
確かにCOOKPADなどにレシピもありました。

いやいや、日本のモチキビとドイツのキビは一緒かしら?

このグリムのお話は、ドイツで再話され、英語に翻訳され、日本語に翻訳されて、私のもとにきています(私は日本語で覚えました)
英語の文献をみると Sweet porridge と表現されています。
直訳すると「甘いおかゆ」?

よけいに訳がわからなくなります。

おはなしを聞くことは、聞き手の中でおはなしが再構築されること。
大切なのは、おかゆを正確に表現することではなくて、
「おいしいものがいつでも食べられて、ひもじい思いをすることがなくなった」こと。(そして幸せになったこと)

おかゆが聞き手によって、
白米のおかゆであっても、
ホットケーキのようにむくむくふくれるものであっても、
「おいしくて食べて幸せになるもの」であることが重要。

だから語りの前に「みんなおかゆを食べたことある?」と聞くのもやめました。
聞き手が食べたおかゆと、物語の中の「おかゆ」は別物だから。

おはなし仲間で話したときも、おかゆのイメージはそれぞれ違いました。
「全粥みたいで黄色くてねっとりしたもの」
「ごはんとおかゆの中間くらいの結構固いもの」
何しろ最後で「食べて食べぬけなければなりませんでしたとさ」とあるので、食べると道ができるくらいの固さでなければなりません。
どろーっとしたおかゆでは食べても食べても道はできない。

私はアイルランドに旅行したときに、朝食におかゆ(porridge)があったのでそれを選び、はちみつをかけたりして「これがおいしいおかゆかしら?」と食べました。
それから、わたしの「おかゆ」イメージはそのときのおかゆ(porridge)になりました。

よく「おはなしを覚えるのが大変でしょう」と言われますが、おはなしは覚えてから自分の中で経験や想いの変化で成長していきます。
私がアイルランドのおかゆを食べてイメージが変わったように。
覚えたあとが、楽しいのです。

オオカミを見たことがなくても「赤ずきん」を読むし、
鬼を見たことがなくても「桃太郎」を爽快だと感じるでしょう。

見たこともないことを信じてもらう

おはなしの世界ってそこから始まる不思議な世界です。


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