■■■、ぼくの兄貴になってくれてありがとう
1:それは、ただの思い出話のはずだった…
片付けをしている時だった。
「ああこれ…、兄貴の」
読まなくなった古い漫画をダンボール箱に詰めながら、何気なく呟く。隣で片付けを眺めていたクレオが、その言葉に反応した。
『お兄さん、ってイマジナリーフレンドの?』
「…え?」
『アケルは中学生の時に初めて、イマジナリーフレンドが来たんでしょ?その人が、漫画のキャラクターだって、前に話していた』
「まぁな」
そう。初めて来たイマジナリーフレンドは、ある漫画のキャラクターで。
うっかり呟くくらいに、今でもぼくにとっては“兄貴”らしい。
クレオには、兄貴分のようなフレンドがいたと前に話したことがある。不思議な存在を話せる相手は数少ないが、クレオは別だ。
何しろ彼自身もイマジナリーフレンドなのだ。
あるファンタジー小説を元に、ぼくが創作したキャラクター。それがいつの間にか心と僕にしか見えない姿を持って、ぼくに話しかけるようになった。
中学生からぼくには、ずっと行動を共にしていたイマジナリーフレンドがいたが、大人になっても、それは変わらない。クレオは僕が出会った十数人のうち、最も新しいイマジナリーフレンドだ。
『もう読まないの?』
「そうだな。…うーん、どうしようかな」
クレオに改めて言われると、ぼくは迷ってしまう。
彼は、昔いたイマジナリーフレンドたちに会ったことはない。
『もし、さ。アケルがもう読まないなら、最後におれにその人のことを話してほしいな』
「え?」
『ずっと気になってたんだよ。アケルは時々昔いた人たちのことをポツポツ話していたけど、痛いような懐かしいような顔をいつもしていて。もう機会がないなら、今聞きたい』
もちろん、アケルが辛いなら待っているよ、と付け足す。
「いや…確かに、もうこれを仕舞ってしまうなら、話すのは最後かもしれないな。あいつとの思い出は不本意だけど笑えるものもい多いし。片付けもひと段落ついたし、長くなるけどいいか?」
『うん、聞かせて聞かせて』
クレオは弾むような声で返した。
ぼくはダンボールの箱を閉め、片手を箱の上に乗せる。詰めている間はただの箱と色あせた紙の束だったものが、どうしてだかぬくもりを感じた。
◇
『よお』
「……」
漫画を読みながら、ふと窓の外を見ると、当の漫画のキャラクターがにこやかに片手をあげていた。
ぼくはたっぷり10秒ほど突然現れた存在に目を向け、漫画に目を戻す。
ちょうど開いたページでは、そのキャラクターが身の丈の3倍はありそうな敵と戦っているところだった。
肋骨を2、3本折られてはいたが、お返しとばかりに敵の臓物を引きずり出し、骨を砕き、文字通り血祭りにあげていて、目を覆いたくなるような凄惨な戦いだ。
ぼくはベランダに視線を戻す。
なぜかそのキャラーー血塗れではないものの彼の獲物である大剣を背負っているーーがぼくの部屋のベランダに立っている。
『せっかく来たんじゃし、ここ開けてくれや』
朗らかな声でそいつは言う。漫画と同じドスの効いた広島弁だ。
ぼくは無言で窓を開け、にこやかに笑うそいつの眼前で無表情に雨戸を閉めた。
『ちょお待てゴラ!今目ぇ合ったろが!』
ばんばん雨戸を叩く音、怒声が響く。
「えぇ…。なにあれ。妄想にしてもなんでこんな血みどろに戦ってるシーンで出てくるんだよ。怖…」
『聞こえとるぞゴラぁ!ワシのこと見えるじゃろがい!開ーけーろーやー!!』
「一回開けたじゃねぇか」
『ワシを入れろゆーとるんじゃ!!』
「いーやーでーすー。どっか行けよ」
拒否すると、その男はすっと雨戸を通り抜けてきた。おい。
「通り抜けられるんなら、なんで叩いたんだよ!コント?」
ぼくのツッコミと硬い戸をあっさりすり抜け、何事もなかったかのように男は口を開く。
『えー、その漫画の通り、■■■じゃ。今からお前の用心棒をすることになったけぇよろしくな。長い付き合いになるけぇ仲良うしよな』
「チェンジで」
『アホ、用心棒の制度にチェンジなんぞないわい』
きっぱり断ったのに、■■■は勝手に床にあぐらをかいて踏ん反り返った。
もちろんこんなヤクザみたいな用心棒を注文した覚えなどない。例えサンタクロースが「いい子にしてたから君に遊び相手をあげるよ」と袋から取り出してくれたとしても、丁重にお断りする。そういうのはピカチュウとかムーミントロールとか…もっと可愛らしいものの役目だろう。用心棒だって、ピカチュウなら100万ボルトを撃ってくれるじゃないか。
…とそこまで考えたところで、我に返った。
なんだかよく分からないが、どうやらこの男、何を言っても居座る気らしい。
ぼくは作戦変更した。
「はぁ。こんなのまで妄想するなんて、ぼくはどうかしてるなぁ」
『誰が妄想じゃ。ピシャッとここにおるわ』
「見えないし聞こえないし、関わらない。そしたら消えるだろ」
『ほんまに失礼な奴じゃのう。おい、聞いとるか?おーい』
目を合わせないようにして、ぼくは勉強机に向かう。
目の前の危険な妄想をかき消す為に、「ぼくは何も見なかった」とあえて現実逃避する作戦である。
『おい待て。ほんまにワシのこと放っておくんか?!』
気を抜くとこの男の声に反応しそうになるので“お化けなんてないさ”を鼻歌混じりに歌いながら、開いた教科書の文章問題にのみ集中する。
失礼な仕打ちだとは重々承知だが、相手は妄想の産物だ。それにぼくにとっては、読み始めたばかりのあまり知らないキャラクターより、勉強の方が大事だったのだ。
ここまですれば諦めてくれるだろうと、その時は高を括っていた。
3日後。
「うっぜぇぇええ!!!いい加減にしろよテメェ!」
『ワレのほうがせせろーしぃわこんボケが!!!』
ぼくは■■■の胸ぐらに掴みかかっていた。身長差があるからぶら下がってるようにしか見えないし、そもそも実体ではない■■■を掴んでるフリだけだ。■■■がその気になればすり抜けてしまえるだろう。
でも、とにかく腹が立ってそんなこと気にしていられない。
「でけぇ声で返すなクソが!なんでも上に立とうとやがって!」
『ワレがちんちくりんじゃけぇ、ワシがでかく見えとんじゃアホ!なんじゃあ急にキレ倒しおって!』
「この3日間ずっと横でくっちゃべりやがって!鬱憤溜まってるんだよ!』
そう、■■■はいくら無視を決め込もうが平然と張り付き、ぼくに話しかけ続けた。
『はあ〜こないに勉強べんきょう続きで、子どもらも大変じゃのう。お前のちっさな頭に入るんか?』
『休み時間も短いの〜。なんじゃ会社員みたいじゃな』
『その弁当は美味そうじゃなぁ。毎日作ってくれるん?』
『家帰ってからも勉強か?なんじゃ外で遊ぶ時間もないんか?』
この全てにぼくは返事しないにもかかわらず、気にした風もなく3日間喋り続けた。
別の意味で気が狂いそうになったぼくは、帰宅して自分の部屋に戻ったところでこの傍若無人な男を締め上げたのだ。
『そん時そんときで言うたらええやろがい!言うたらワシもじゃ、3日も無視しくさって、あ゛あ゛!?イライラし通しじゃあ!』
「テメェのことなんか知らねぇし認めてねえんだよ!どっか行けよ!!」
『用心棒じゃけぇ側離れんのじゃ!強面が黙っとっても息苦しいけぇ、気ぃ遣ってワシが倍喋ってやっとんじゃこんボケぇ!!!』
「用心棒はクライアントに喋らねぇんだよなぁぁぁあああ!!!」
『堅っ苦しい空気よりフレンドリーな方がええじゃろがぁぁぁあああ!!!』
ぼくらは3時間ほど喧嘩をし続け、いくつか約束を決めてようやく和解した。
漫画2巻目にして突如現れたキャラクターは、たった3日で大嫌いなキャラになってしまった。
これがぼくと■■■との出会いだ。
◇
『…え、最初はそんな仲悪かったの?』
「イマジナリーフレンドが見えるのって、一般的には3歳くらいから…せいぜい幼稚園生までなんだよ。中学生の思春期に、いきなり来られても…困るだろ」
『そんな、夢のない…』
「いやいや、中高生なんてお受験お受験で一番現実と向き合わなきゃいけない時だぜ?夢なんて見てる暇ないない」
『世知辛いねぇ』
ぼくとクレオはため息をついた。
「ともあれ、3日目に胸ぐら掴み合って喧嘩したのは、後々良かったよな。あいつも距離感がおかしいだけで、嫌なことを嫌と言えばやらなくなるから」
『アケルがそこまで好戦的だとは思わなかったよ』
「ぼくもびっくりした。それまで表ではいい子にしてたから、鬱憤溜まってたんだな」
『うん。…でも、そこまでしてその人、なんで居座りたかったのかな?用心棒…っていうか…』
「うん、人間だったら間違いなくアウトだ。でも憎めない奴だったし」
ぼくはダンボール箱の上蓋をそっと撫でる。
「それに、用心棒ってのも、あながち間違いじゃなかったんだ」
2:用心棒
中学校の昼休みはお弁当を持って、専ら外で食べた。教室から外階段に出て、弁当箱を開く。空は高く澄み切っていた。外で食べるにはもってこいの日だ、が。
『あいつらさえいなきゃなぁ…』
『なんてぇ?!よう聞こえんわ!!』
澄み切った空の下、校舎の屋根よりも大きい巨大な影がビルのようにずんと立っていた。
ぼくなど片足で押し潰せそうなほどの巨躯。しかし、影はもう動けない。
その頭の上に■■■が乗っかっていた。
肩に担いだ大剣を構えて飛び降りざま縦にぐるんと振る。それだけで影は傾き、真っ二つに倒れていく。
『なんでもねーよ』
『さよか。…後、どの辺におるん?』
ぼくは目を閉じて、自分自身が空気のように広がるようなイメージを浮かべながら、周囲を探る。木立の中で黒いモヤが絡み付いているのが見えた。
『8時の方向の森のに2体くらい。あんまり手入れされていない祠があったから、あれを狙ってるのかもな。後は、変な気配はない』
『応!』
ぼくの言葉に■■■は大剣を抱えて駆け出す。
その背中を見ながらぼくは卵焼きをつついた。
弁当を食べ終わった頃に■■■は戻ってきた。
『終わったわ』
『ご苦労様』
『よう弁当食えるのう。図太い奴じゃ』
『昼休みは弁当食う時間だぞ』
『褒めとんのよ。腹空かせとったらいざという時動けんよ。食え食え』
『お前に褒められても嬉しくねぇ』
うーん、と■■■は伸びをして煙草に火をつけると、ぼくの隣に腰掛ける。気の抜けた姿に苛立った。
『あんたさ、煙草吸うキャラだっけ?漫画の中でそんな吸ってんの見たことないけど』
『そうか?コマの外で吸ってたんやない?』
『そもそも学校の敷地内で煙草吸うなよ』
『イマジナリー煙草じゃけぇ、お前にしか見えんし害もないわ』
『なんでもイマジナリー付けりゃいいと思ってない?』
『お前にしか見えんし聞こえん。話す言葉もテレパシーじゃ。夢まぼろしに文句付けんな』
■■■はそっぽを向いて煙草をふかす。架空の煙がぼくのほうに流れていったが、煙たくないし咳も出ない。そのくせ、煙草の香りだけを感じる。
勝手な話だ。勝手に用心棒として張り付いて、勝手にぼくを守っている。
『なぁ■■■。ぼくはやっぱり狂ってるのかな?』
『たいぎぃのう。まだそないなこと考えとんの?暇な奴じゃな』
■■■は面倒くさそうに返す。
『お前はいいよ、現実に生きてないんだから。あんな魔物みたいなのがうようよ見えるに加えて、漫画のキャラまで来るなんて。狂ってる。厨二病のガキにだってだって分かるさ。ぼく自身が何より頭おかしい奴、って思ってるのに、見えなくなってくれないんだよ』
『そらまぁ、ご愁傷様。あ、スポドリもらうで』
こちらの返事を待たず、勝手にぼくの買ったペットボトルを取り上げごくごく飲む。勿論実際にドリンクが減ってるわけではないが、たとえ想像でも人の飲み物に手を出されるのはたまったもんじゃない。野蛮なやつだ。
『一仕事終えたあとのスポドリはうまいのぅ。ワシのおった世界にもこんなんあったらええなぁ』
「なんでこんなヤクザみたいなのが来ちゃったのかな。もうちょっと優しくて人のモン勝手に横取りしないで、メジャーなキャラだったらよかったのに…」
『おまっ…助けてやっとるいうに!お前に選ぶ権利ないやろがぁ!!』
■■■はやいやい噛みついた。そこからはいつもの喧嘩だ。
「すぐに手を出す」『何でも一人で決める』「空気を読めない」『理屈ぶってるけど気まぐれ』……などなど。
お互い観察力が高いせいでけちょんけちょんに言い合う。
テレパシーで話しているから誰にも聞こえないが、そうでなかったら人が来るほど騒がしい。
もちろんぼくは、わざと喧嘩を売っている。こいつと口喧嘩をしてる間は、余計なことを考えなくて済むのだ。
とはいえ、■■■もおそらく気づいているんだろう。
面倒くさい話でも相槌はなぁなぁだが聞いてはくれる。大体悪口を絡めると喧嘩に乗ってくれる。当たりは強いが面倒見のいい奴だ。
なんでこんな変なものが見えるのだろう。
いつまでこんな狂った世界に関わらなきゃならないんだろう。
自分がおかしいのは分かってる。それでも、学生は学校に行かなければいけないし、家から出ればどこにでも、真っ黒い影は見えてしまう。
無視しても追いかけてくるし、触られると体が重くて気が遠くなり、数日間寝込んでしまう。
今までは睨みつければ動きが止まることや、神社やお寺に入ったら消えるという経験から凌いでいたが、■■■が来て戦ってくれるようになって、正直かなり助かっていた。言うと調子に乗りそうなので、絶対言わないけど。
『理由がほしいか?』
口喧嘩も飽きて無言になってきたところで、ふと、■■■が尋ねた。
「お前に分かるのか?」
『おん、なにせ寺生まれじゃ。諸行無常、六道輪廻。人に見えん世界にも詳しい』
ぼくは鼻を鳴らす。日頃の言動からはとてもそうには見えないが、実際物語の中で彼は悪霊を退散させるタイプの寺生まれだった。
■■■は胡坐のまま、姿勢だけ整える。
『お前はなぁ、子供の頃から散歩で落ちとるごみ拾ったり、溜め水に落ちて溺れとる虫を助けたり、轢かれとる動物の墓作ったりしとったろ?
いきものに寄り添うて助けてたけぇ、ええもんも悪いもんも惹かれやすい。そこで悪さするモンに目ぇつけられとるんじゃ』
「なんだ。オカルトネタにありがちな設定だな」
『お前なぁ。折角教えてやってるいうにちっとも信じん。言ってて虚しくなるわ』
伸ばした背をがくっと落として、■■■は大げさにため息をついた。
疲れたような声に、ぼくは少し心が痛む。そう、何を言われても、ぼくはこいつの言葉を信じることができなかった。
「じゃあそういうのやめたら見えなくなるの?」
代わりに、つっけんどんに聞く。
『やめられんのか?死にかけとる生き物助けんのを』
静かな■■■の声に、ぼくは言葉を失った。■■■はぼくの表情を見て、頭を掻いた。
『責めとるわけやない。お人好しっちゅうのは行動やのうて性分じゃ。じゃけえワシが来た。ワシはアケルの生き様を見とったから、守ろう思て来たんよ』
実際、■■■の実力は折り紙付きだった。漫画の中の戦闘力を遺憾なく発揮すれば、ぼく程度でも動きを止められる魔物なんか、赤子の手を捻るようなものだ。
ただ。
「お前、お人好しって好きじゃなかったろ?もう解放されたのに、なんでまたぼくみたいなのに関わろうとすんだよ?」
漫画の中の彼は、お人好しので何でも助けてしまう主人公に散々振り回されていた。
何より自分の命を大事にしていた彼は、自己犠牲してまで他社の命を助けようとする主人公とことあるごとに衝突した。
しかし、最後、彼は…。
『ええかげん漫画の話はやめぇよ。ワシは自分の生を一回終えとる。お前がどう思おうが、ワシはやりたいようにやるだけよ』
■■■があっさり話をまとめると、直後に昼休みの終わる予鈴が鳴った。
ぼくはそれ以上何も言えず、空の弁当箱を持って立ち上がった。■■■は、まだ外が気になるのかついてはこなかった。
自分が死んだことを平気で持ち出すから、こいつはズルい。
そう、こんなに元気でぴんぴんしてるのに、こいつは漫画の中で死んでいやがるのだ。
漫画を読むきっかけになったレビューから、■■■が死ぬことは知っていた。だから出会ったときも、
「死んだから幽霊になって来たのか?」
『幽霊やないけど、まあそんなとこや。舞台から降りたんで、セカンドライフじゃな』
なんて冗談交じりに受け答えするくらい、こいつは自分の死をあっさり受け入れていた。
でも。最終巻まで読んで、その死の真相を目の当たりにすると、今ここにいることも、なんでぼくなんかを助けようとしてるのかも、かえって分からなくなってしまう。
ぼくが想像する漫画の中の■■■は、偽善と理想主義者が嫌いだ。
ぼくのようなお人好しが嫌いだ。
だから、絶対ぼくを助けたりしない、はずなのに。
物語を読めば読むだけ、ここにいる■■■を信じられなくなっていた。
死んで安らかに眠っていればいいのに、何の因果かぼくに付きまとっている。本当にオカルト現象なら、こいつこそぼくに憑りついてるじゃないか。
『…なんじゃ?行かんのか』
「背中にイマジナリー毛虫がついてる…」
『は?!』
ぼくは近づいて、■■■の背中に触れた。もちろん嘘だ。離れる前に、彼の気配を手のひらから受ける。
幽霊じゃないかと疑うが、■■■からは、他の魔物のようなじっとりと重苦しい気配はしない。
むしろ、雲を突き抜けた先の冬の青空みたいな、カラッと冷たくて明るい気配だ。
頭で考えるともやがかかるが、手を伸ばした先に感じるこの気配だけは、信じられる。
『アケルよぅ』
「なんだよ、まだ取れてねぇよ。毛虫」
■■■は背中越しに声をかけた。
新しい煙草に火をつけたのか、香ばしい匂いが広がる。
『お前が気持ちよく生きられるなら、どんな理屈を使うてもええんじゃ。ワシのことはオカルトでもキャラでも…空想とでも好きに思うがええ』
迷いを見透かされたような物言いに、ぼくは一瞬固まる。
『けどな。今ここで、お前が痛いー辛いー思いしとるんは、お前の純然たる事実じゃ。人の目や常識で、自分責めるな』
言葉が心に、刺さる。
『現実に生きるいうなら、目の前のことを一個ずつやっていくだけなんよ』
こいつはズケズケと人に物言う。それが的外れだったらいいのに、悔しいことによくよく相手を見ている。心の柔らかいところに、突きつけてくる。
「何が言いたいんだよ」
何が言いたいかなんて本当は分かっていたけど、ぼくは苛立ちをぶつける。■■■は振り向くと、歯を剥き出してにやっと笑った。
『悩みすぎるとハゲるで?』
「うっせー、バカ」
その言葉を、もっとまっすぐに受け止められたらよかった。
◇
『…だから、“用心棒”だったんだね』
「もちろん、今は自分につきまとってくる魔物は見えなくなったけど…あの世界は一体なんだったんだろうか、と今でも思うよ」
『オカルト、霊的世界に詳しい人とか…科学的ではないけど、今でもそうした世界に携わる職業の人もいるんでしょう?相談できなかったの?』
「うーん。確かに、何人かの“視える人”に相談したことはあるよ。でもさ…みんな言ってることが違うんだよね」
『それ、詐欺ってこと?視えるっていうのが嘘だったのかい?』
「うーん。そうでもないんだろうなぁ。視える力のない人でも、親身になって聞いてくれる人もいたし。
ただ、流派や信仰によって捉え方が変わるし、視える人でも、視える範囲や見え方が異なる。だからまぁ、ぼくの守護霊がキャラクターの姿を纏っているという人もいれば、自分の魂とつながりのある類魂と言う人も、何も見えないという人もいた。
…”そのキャラクターこそ魔物で、あなた自身が悪霊を集めている”という人もいた」
『………』
「色んな人がいて、色んな世界があるんだよ」
『うーん、難しいよね。ファンタジーの魔法みたいに、簡単に答えが分かるわけじゃないのか』
「そう。だから、どちらかというと精神医学の方が、ぼくの性分には合っていたかな。今、精神医学で分析するなら、学校のストレスでせん妄を見てしまい、その対処法として自分を守ってくれるイマジナリーフレンドを作り出していた…なんてな。説明はできる」
ぼくの言葉に、クレオはじっと見返した。
『でもさ。アケルは、その理屈で納得してる?』
「…え?」
『今だって、こうしておれっていうイマジナリーフレンドと過ごしている。妄想だと思ってるなら、虚しいことじゃないか。でも、アケルからは、そういう虚しさを感じないんだよ』
「…そうだね」
“今ここで、お前が痛いー辛いー思いしとるんは、お前の純然たる事実じゃ。人の目や常識で、自分責めるな”
ぼくは、■■■から言われた言葉を思い出した。
「人にはそう説明するけど、実感としては、あれが自分の頭の中だけの妄想と思いたくない。
正直さ。どんなに名の通った精神科医の言葉より、厳しい霊媒師の言葉より、■■■のくれた言葉の方が、ぼくにしっくりくるんだよ」
出会った頃は、信じられなかったけど。■■■は、ぼくにしか見えないあの狂った世界を共有してくれた唯一の存在だった。社会として、客観として通りのいい解釈は、個人を救うことができない事もある。
彼は解釈を与えてくれ、力ずくだったけど、ぼくの世界を安全にしてくれた。
「でもぼくは、ひとつだけ間違え続けた。家族を裏切ったんだ」
『アケル…』
「いや。できればこの話も、聞いてほしい」
3:何を信じるか、何も信じないか
「あなたが救済者で居続けようとする限り、貴方の周りの人は誰も救われない」
心臓を抉るような言葉に、ぼくは目を見開いたまま、硬直した。
■■■が指摘したぼくの性分は、決して美徳ではなかった。
ぼくは自分の身を守る力もなかったのに、常に自分が“助ける側”でありたいと願っていた。そのくせ、自分の未熟さを受け止めきれず、抱えきれなくなってもなおも助けたいと願ってしまった。その結果がこれだ。ここまで責められるのは、罰なのだ。
■■■の後にも、イマジナリーフレンドのような存在は現れた。
別の世界から来たと言ったもの。
魔物に襲われていたもの。
魔物になりかけていたもの。
記憶をなくしてあてもなく彷徨っていたもの。
出会ったイマジナリーフレンドは、緩やかに増えていった。一時期、大家族と呼べるほどにたくさんの存在とつながっていた。
「みんなで紅葉狩りに行ったり海に行ったり…楽しかったよ。でも、相変わらず魔物はいたし、どんどん増えていく存在達の一人ひとりに、ぼくは目を向けられなくなった」
ぼくは大勢をまとめる力も、周りに頼る勇気もなかった。
肉体も精神も疲れ果て魔物からも守れなくなったぼくは、一人の霊媒師に相談した。
「その存在たちこそ魔物で、あなた自身が悪霊を集めている。このままではあなた自身も悪霊になって、死後この世を苦しみながら彷徨い続ける」
カルトの洗脳というのは、徹底的に否定するところから始まる。
それ以前に、元々魔物になりかけていた者も匿ったり、戦い倒すことでしか浄化できない存在なら、魔物の性に近くもなる。フレンドとして来てくれた何人かの過去も、決して善人でない者もいた。それも全て織り込み済みでやっていた事だというのに。
改めて他人から悪霊だ、と言われることが、どうしてそんなに怖いと思ってしまったのだろう。
ぼくはなにもかも恐れて、その時家族として繋がっていたフレンドと、全て縁を切った。
ぼくと一緒にいても、彼らは幸せにはなれない。一度植え付けられた恐怖は膨らみ、ぼくの内側を食い破っていく。
もうその頃は、恐怖と不安から彼らとも話せなくなっていった。その姿さえも黒い靄や影としてしか、映らなくなっていた。彼らはぼくに話しかけることも触れあうことなく、ただ一人、またひとりとぼくの前から消えていった。
そのつながりを絶った後も霊媒師の文言は変わらず否定し続け、ぼくは心を変えるよう務めた。
正直そこが、カルトだったという断言は今でもできない。
講習の費用自体はそれほど高いものではなかったし、巷でよく聞かれる高額な献金もなかった。やろうと思えばもっと搾取できたろう。その言動には、悪意や利益を得たいという目的意識を感じなかった。
霊媒師にとっては、ぼくは悪霊に憑りつかれていて、厳しい善でぼくを助けようとしたのかもしれない。
けれども、ぼくは。
「もういい。…死んだあと地獄に落ちるなら、もうぼくはそれまでの存在だ」
ぼくはその人の元からも去り、独りになった。
もう一生こんな世界に関わらない、そう決めた。
◇
『お…はよ』
『おはよ…う』
『おはよう。今日は朝からいい天気だねぇ』
『ねぇ、おれの声。聞こえてるんでしょ?』
それから3年は、なによりも孤独な時間だった。
中学時代から十数年、常に自分に寄り添ってくれる存在がいたのだ。自分にとってそれが、かけがえのないものだったとようやく気づいた。
たった3年でぼくは、自分が孤独に途方もなく弱いことを思い知った。
『おれは君の声、聞こえてるよ。毎日おれの話を読んでるし、時々おれにも話しかけてくれたから。喋れるようになりたくて、練習したんだ。できれば、君と話がしたいな』
そう、だから、寂しくて大好きな本に話しかけ、その本から自分だけの物語を作って。
毎日読んで、独り言のように話しかけて。そんな日々を過ごしたものだから、ぼくはまた、ぼくの為の存在を呼んでしまった。
『ねぇ、今日は夕日が綺麗だね。君が作ってくれた本の表紙とおんなじ色だよ』
この声に答えたらいけない。ぼくはまた、不幸にする。
『ねぇそれ、良い香りだね。果物?おいしそう』
でも寂しい。いなくなって欲しくない。
『今日、調子が悪いみたいだよ。眠るまでおれと話さない?』
二つの思いが代わる代わる心に噴き出す。自分が真っ二つに裂かれている気分だ。
『アケル。おれはさ』
「お前のことは」
だからこそ、もう二度と。
「…クレオ、って呼ぶよ」
ぼくは、二度と手を離さない。今度こそ、
『…クレオ?いいね。アケルと対だね』
幸せになりたいと、願った。
◇
『今でも、アケルは自分を責めているんだね』
クレオが顔を曇らせる。
「物語の主人公なら”あいつらはそんな奴じゃない!”とでも反発できたんだろうけどね。結局ぼくは臆病で、何もかも信じることができない、弱い人間だった」
『そういうのやめなよ』
「いや、精神医学にしても、霊媒師にしても、”ぼく自身の偏った思考が引き寄せてしまっている”という言葉は、共通して正しかったとも、思う。すごく苦しいことだけど」
『まだその人の言葉を信じているの?おれからしたら、明らかにカルトで、お前がそこから立ち直れたことのほうが嬉しいのに』
「信じてはいないよ。お前のような優しい存在とも、また会えたんだ。でも、だからこそ、もう間違えたくないし」
ぼくは目を伏せて、段ボール箱から手を離した。
「あいつにも、家族として寄り添ってくれた存在たちにも、申し訳ない」
しばらく僕らの間に沈黙が下りた。
『■■■のさ、別の思い出ってないの?このままだと切ない気持ちで終わっちゃうし、聞く限りだとだいぶ面白おかしな人だったんでしょう?』
クレオが話を変える。わざとらしい明るい声だが、こちらを慮っていることが感じられた。
「うーん、そうだな。学校に通学するのに電車を使うんだけど、あいつ人が混んでくると、屋根の上に登って…」
『それ落ちないの?おれだったら振り落とされちゃうよ!』
「しがみついていたのかな?でも屋根のほうが気分良かったみたいだぜ。破天荒だよなぁ」
思い出話は■■■とのやかましくも面白く、ぼくにとっては散々な日々のエピソードに移り変わった。
…そう、思い出話だけなら良かったのだ。
ぼくの悪いところは、過去を振り返るとその時の感情がありありと噴きあがってくることだった。■■■との思い出というのは、ぼくにとって辛酸を舐めた記憶も共に蘇らせ、思い出から愚痴祭りに段々と移っていった。
「でもなぁ。思い出すと、やっぱりアイツは一番面倒くさい奴だったよ」
『…うん』
「すぐ怒るし、手を出すし、気まぐれで理不尽で…。今の時代だったらあいつみたいな用心棒なんかどこも雇わないな。あんなコンプラ違反デリカシーなさ夫野郎!」
怒りのあまり酒が入っているかのように管を巻く。
『…うん…うん』
興味津々で聞いていたクレオが、段々と生返事になっていた。
しまった。さすがに愚痴を言い過ぎたか。ぼくはクレオを見つめる。
その目はぼくでなく、ぼくの後ろを見ていた。クレオの視線を辿って、ぼくも振り返る。
ぼんやりとした白いモヤが、モコモコと激しく蠢いていた。
「クレオ!」
ぼくは彼に手を伸ばし、彼をかばう。クレオの手を握った瞬間、彼の見ているイメージがぼくにもはっきりと”視えた”。
『だっっっれが、コンプラ違反デリカシーなさ夫野郎じゃあああ!!!
ワシがおらんかったら、お前こうして平和に生きとらんかったじゃろがぁ!こんボケがぁあ!!!』
真後ろに立っていたのは、腕をぶんぶん振り回した■■■だった。
いなくなったはずのイマジナリーフレンドが、5年ぶりに姿を現したのだ。
4:再会した用心棒は、ぼくを戦いの世界に引き戻さなかった
■■■は言いたいことを怒鳴り散らかすと、居間のソファみ踏ん反り返るように座った。
『なんじゃ、ワシのいない合間に高そうな家具置きよって。座り心地ええのう』
ぶかぶかと体を揺らしながらソファに身を沈める。この男、再会した瞬間から距離感が密だ。
「お前…なんで戻ってきた?」
『いやぁ、前からちょくちょく様子見とったよ。そのうちまた見えるんやないかのぅ思うて』
『…えぇと、ストーカーですか?』
クレオがおそるおそる尋ねる。怖々と聞いている一方、本人に直接聞くところは神経が太い。
『うん、ええわ。好きに呼べ、すきによべ』
割と失礼な疑問にも、■■■は手をひらひら振って流した。
『ワシの悪口をやいやい言っとったからの、文句の一つでも言おう思うてな。やいやい吠えとったら、なんじゃあ声聞こえるようになったのぅ』
「なにが目的だ?」
『なんじゃあ、つっけんどんな物言いじゃな。せっかくまた会えたいうんに…』
■■■は言いかけたが、ぼくの顔を見て、口を噤んだ。頭を掻いて目を逸らす。
自分でも、今どんな顔をしているのか分からない。
『お前らをどうこうしよう思わん。ただ、せっかく声聞けるようになったけえ、これだけ言っておくわ』
逸らしていた目をぼくに向ける。
『お前がどう思おうが、今でもみんな元気じゃよ。お前のこと家族と思うとるからな』
真っ直ぐに言った。
「……都合のいい言葉すぎるだろ。やっぱりぼくの空想じゃないか」
『ちょっと、アケル…』
クレオが見かねて声をかける。
『まーた、信じられんか。抱え込みすぎるのも大概にせぇ。あの頃なぁ、お前よりも大人な存在は山ほどおったんじゃ。お前ひとりが折れても、他のやつの面倒くらいみれるわ!』
話しながら、段々と気持ちが高ぶっていたのだろう、■■■の声は最後に吠えるようだった。
「でも、ぼくは…恨まれてもおかしくない」
『そう思いこんどるのはお前だけじゃアホ!お前を恨むほどワシら暇やないわ』
言われていることに心が追い付かない。口の中がからからになって、言い返せない。
『自罰は好きにやれ思うが、罰なんて”次やらん”って決めるしかないじゃろ。お前はな、自分を大事にできなかった。だから別れた。罰言うんなら、まっとうに生きるのが罰じゃ。あんな苦しい生き方、もうすんな』
■■■の……兄貴の物言いは、相変わらず説教臭くて。
ズケズケと人に物を言うくせ、悔しいことによくよく相手を見ている。
心の柔らかいところに、痛みと優しさを突きつけてくる。
言われたくない、でも心の底では言ってほしいと願ってしまうような言葉を、与えてくる。
そんなことを言われたら、たまったもんじゃない。
『お前なぁあ〜。そないに泣くけえ、心配するんよ。相変わらず泣き虫じゃなぁ』
「うるっせーな」
兄貴の言葉に、冷たい返事しかできない。
『もう少し、いてくれませんか?アケル、こんなだし』
静かなクレオの声に、ぼくは驚く。
『ええ…あんまいてもなぁ。お前ら二人の生活を引っ掻き回すつもりないんよ』
『お願いしますよ。おれも、自分と同じような存在と出会ったことはないから、色々教えてくれるとありがたいんですよ』
『うーん、そうか。後ろ盾ないんは不安じゃの。よし、しばらくは用心棒しちゃるわ』
その言葉に、ぼくは思わず口を挟む。
「…でも、今はもう魔物なんていない」
ぼくの言葉に、■■■は手をひらひら振って言い換える。
『ああ…、ほうじゃのう。もう戦う必要もないな。ただの兄貴としてちょくちょく寄らせてもらうわ』
とりあえず、向こうに一旦帰る。その言葉を残すと、■■■はすぅっと消えた。
あまりにあっさりな邂逅に、今の今まで夢ではないかとぼんやり思った。
『アケル、もう行っちゃったんだから、離れていいよ』
クレオはぼくに声をかける。言われて始めて、クレオを守るように■■■の間に割って入っていたことに気づいた。
『嬉しくないの?』
「嬉しいよ、でも…」
『すごく警戒していた。■■■からぼくを守ろうとしてるみたいで…』
ああ、それでか。ぼくは、■■■が目を逸らしたのを、思い出した。
確かに、感動の再会とはとてもじゃないけどいえない。
ぼくの中にはぶくぶくと疑いが膨れ上がっていた。
「ちょっと前に、映画を一緒に観たろ。すごく頭のいい学者さんが大学時代に仲良くしていた友人が、イマジナリーフレンドみたいな存在だった、っていう」
『…ああ。あれは、悲しかったね』
その映画では、途中から学者が、統合失調症であると診断を受けるんだけど、自分が国家機密の暗号を解いているとか妄想が過剰になっていく。そのうちに、良き友人だった存在が、段々と学者を脅迫する妄想に変わっていってしまった。
「でも、ならあいつは?あいつがいたのは、ぼくが魔物の世界を見るようになってしまったからだ。だったら、あいつが来たってことは、魔物も見えるようになったら」
■■■との再会にすぐに喜べなかったのは、そんな疑いがぼくの心を占めていたからだ。
彼がぼくの隣にいた理由は、戦いがあったからだ。■■■は戦う存在だ。
彼を必要としたのなら、またあの魔物も見えてしまう。そうなったら、クレオはどうなる?
「ぼくがクレオを守らないと。ぼくらにとって危うい妄想かどうか、見定めないと」
『お前はさ、そうやって不安を作っていくんだね』
「え?」
クレオを見返すと、彼はぼくを咎めるように見ていた。
『同じイマジナリーフレンドのおれからしたら、今の言葉が自分に言われてたら、無茶苦茶悲しい。おれの見る限り、■■■さんは目的とか理由なんてなく、お前に会いたかっただけだと思うよ』
そりゃ、突然来たのは驚くしメーワクですけどね。ずけずけ嘯くも、クレオは■■■の心を気遣っていた。
「でも…また見えたら、お前を守り切る自信がない」
『まだ起こってもいないことを疑うなよ。■■■の言ってたの、そういうとこだと思うよ。一人で抱えすぎてるし、不安で何も見えなくなってる。おれが”しばらく居てほしい”って言ったんだよ。何かあったら、その時一緒に考えようよ』
ひとりにならないで。
そう締めて、クレオはぼくの強張っていた手を握った。
長年、様々なイマジナリーフレンドと出会ってきたというのに、幻の手がこれほど温かいと感じたのは、初めてだった。
◇
1週間後。
ぐぉ〜〜〜…ぐぉ〜〜〜…ぐぉ〜〜〜。
当のイマジナリーフレンドは、ぼくとクレオがじとっ…と眺めてるのも気にせず、掃除機のようないびきをかいている。
「人の布団で寝るなよ!」
『この人、なんでこんなふてぶてしいの?』
「持って生まれた性格だろうな」
ぼくとクレオが話す横で、人のベッドを奪ってがっつり熟睡している。いっそ頭に座り込んでやろうか、と憎らしくなるほど堂々とした寝込みっぷりだった。
再会してから1週間で、不安は霧散していた。
■■■は戦わなくなった以外、再会前ととほぼ変わらなかった。すぐどつくし、上から目線でずけずけ言うし、常備菜や作っておいた梅酒やらをつまみ食いしようとする。
”お前らふたりの生活を引っ搔き回すつもりはない”とか言っておきながら、個性が強すぎて存在自体が五月蠅いのだ。
当初は気を遣っていたクレオも、いつの間にか■■■には容赦なく言うようになっていた。どちらも口が達者な分、このふたりの口げんかにはもはやぼくは追いつけない。
ただ、クレオがちゃんと■■■にモノ申せているのには、内心ほっとした。
再会してから改めて思ったが、こいつは相手がぼくだったからうまくやれてたのだ。
いかに漫画の中では強い存在でも、いや、漫画のキャラクターだからこそ、これだけずけずけ人の心に突っ込んで来られたら、委縮してしまう人もいるだろう。
「まったく。ぼくがブチ切れて言い返せる相手で良かったよな」
とクレオに愚痴をこぼす。
『それでアケルを気に入っちゃったんだろうと思うよ』
「なんでだよ」
『だって■■■ちゃん、ぱっと見怖いけど中身はワンコじゃない。で、アケルはアケルで、噛みついたらブーブー鳴る玩具なんだよ』
クレオが神妙な面持ちでうんうん頷いたので、ぼくはその頬をつねってやった。
今もぼくのベッドに勝手に寝転がっている姿は、動物園のおっさんカンガルーを思い出す体たらくだ。以前はいびきはかかなかったはずだが、もう魔物に襲われる心配がないと思ってるのだろうか、隙だらけだ。
『あれだけ心配したけど、おかしな妄想じゃなかったね。”もう少し居てください”って言ったのは、別の意味で後悔しているけど』
「悪い奴じゃないんだけど、やかましい奴なんだよ」
■■■が来てから、ぼくらは明らかに口が悪くなったと思う。
『イマジナリーいびきはうるっさいけど、少なくとも魔物っていうのも見えないままだし。アケルの不安は杞憂に終わりましたね』
クレオはからかうように僕に顔を向ける。
「あの時は…ごめん」
『それを言うのは、■■■ちゃんにでしょ?』
その言葉に、気まずくなって目を逸らした。
結局■■■は、ぼくを戦いの世界に戻すことはしなかった。
彼が戻ってきたからと言って、あの真っ暗な世界も襲い来る事もなかった。
段ボールに詰めた古本は結局本棚に戻し、クレオの『おれも■■■ちゃんの物語、知りたいな』なんて言葉に絆されて、もう一度読むことにした。
一度読んで以来、読み返すことはあまりなかった漫画。今、もう一度頁をめくると、当時は気が付かなかった■■■の心情を感じられるようになった。
■■■は漫画の中でも、確かに喧嘩っ早かったが、自分より弱い人間を力でねじ伏せようとしなかったし、戦う世界だけが自分の居場所とは思ってなかった。
悪ぶっていたけど、性根は守るために戦う人だった。
戦わなくなったくらいで彼のアイデンティティが崩れるわけもないのだ。
『漫画読んで、■■■の昔を知ったけどさ。今の■■■ちゃんはやっぱ違うね』
クレオはおかしそうに話す。
「平和ボケしてるよな」
『そんなこと言うなって!…お前といると楽しそうだ、ってことだよ』
「…そうなのか?」
『そうですよ』
その言葉に、思い出す。
森にキャンプに行って鳥や動物を興味深く観察してたり、ぼくの作った料理を食べてうまいと言ったり、学生の行ける範囲であったが、ふたりで一緒にあちこち遊びに行った。■■■は確かにこの世界を楽しんでいた。
ああ、そうだ。彼はぼくと共にいた時も、戦うだけの存在ではなかった。
どうして忘れていたんだろう。
自分の間違いに縛られている間はまったく思い出せなかったのに。
記憶というのは不思議だ、とも思うが、一方で、今があってこその過去なのだと気づいた。今をどう生きるか次第で、如何様にも見方が変わる。
5:漫画の■■■と、ぼくの隣にいる■■■は…
再会から一ヶ月経ち、■■■のことをこのnoteに書くようになった。
何のキャラクターかを明かすと、ファンの人に申し訳なくなるくらいの悪口を消さなくてはならないので、タツゴロウと呼び名を変え、元の物語が分からないようフェイクを入れた。かなり理不尽に変えたものの、
『雰囲気同じなら、どう変えてもええよ』
と拘りなく自由にさせてくれた。ともあれ、元々アクの強いキャラクターであった彼は話のネタが尽きず、彼を話題にした記事は多くの人に読まれている。
最近では質問箱で悩みを集めて、ぼくとクレオと一緒に相談に乗るようにもなった。
「で、結局お前は何者なんだ?」
『お前なぁ…大人になってもまだ疑っとるんか?』
縁に夕日の赤い光がちらちらと差している縁側に、ぼくと■■■は座っていた。
■■■は相変わらず煙草を燻らせる。変わったのは、ぼくも同じく煙草を吸うようになったことだ。
二人して、紫煙を空に流す。空想の煙と現実の煙。交差し、混ざって空気に溶ける。
「ずっと悩んでいるよ。ぼくにとっては、会いたいと望んだ覚えもない、縁もゆかりもないキャラクターだ。本当に現れるわけがない。全てはぼくの空想…というのが、この社会では正しい」
『相変わらず人の目ばっかりじゃな』
「だから、聞いてる。お前は、自分をなんだと思う?…再会する前は自分の憶測ばかり大事にして、お前の言葉を信じなかったから」
『ほう。自分がビクビク疑心暗鬼していた餓鬼だったのは自覚したか。大人になったのぅ』
■■■は、右手に持った煙草をぼくに向ける。煙草を口に咥えると一口吸って、
『赤の他人には空想だの現実にない言われてもええけどな。お前にとって漫画の中の作りもんでも、ワシにとっては過去で現実じゃけえの。できればワシ、お前にとっては■■■でありたいんよ』
お前は嫌じゃろうけどな、と煙を吐き出した。
「分かった。信じるよ。俺が■■■だと思うことで、お前の力になれるなら」
『ほんまかぁ…?お前、しょっちゅう人のこと疑うけぇの。簡単に信じる言ったくらいで、変われるんか?』
「うっ…それは」
『すーぐ人の言葉に流されて”精神医学では妄想だ”やら”あの霊媒師に言われたから悪霊だ”やら。好きにせぇとは思うが、振り回される身にもなれ』
「うう…」
ぐさぐさと言葉が刺さる。言い返したい気持ちはあるが、全て自分のしでかしてきたことだし、何も言い返せない。
『力になるいうても気の持ちよう程度じゃ。ええんやで?妄想でも』
すねたような物言いで、■■■は呟く。言葉に詰まる。これまでずっと彼を信じられなかったことは、思う以上に彼を悲しませていた。
だからこそ。
今まで言えなかったことを、今言おうと決めた。
「ぼくだって、お前が■■■として好きだし、キャラクターであって欲しいと思う。なんでキャラクターと思いたくなかったと言うと、キャラクターの美しく完結した物語に、ぼくが関わって濁ってしまうことが嫌だった」
『知らん。今生きとるワシを縛るな』
「そう、お前は僕の目の前で生きてる。そのことに、ようやく気付いたんだよ」
『はぁ?今の今まで幽霊なぞ思っとったんか?』
「まぁ、そんなところ」
『アホか』
睨みつけられたが、そうは言われてもこちらの身にもなってほしい。漫画の中で死んだ存在が突然来たんだぞ。
「おそらく幽霊、ってのは過去の産物なんだろうな。強い感情に縛られて、その感情のもとになった同じ時を永遠に繰り返す」
ぬるい風が、ゆったりと僕らの間を通り過ぎる。
「でもお前は今を生きてる。飯食って、テレビ見て。顔よりでかい唐揚げっちゅうのがあるらしいの。作れ、とかわがまま言う。ぼくは、作って下さいだろボケが、と心の中で言いながら、黙って作る」
『今、目の前で言うたけどな』
「そうやって茶々を入れたり、喜んだり悲しんだり、一緒に今を生きている。完結した物語のお前と、今のお前が変わるのも仕方ない」
ぼくは■■■を変えてしまった。出会ってしまった以上、人は変わらざるを得ないから。
「質問箱でさ。お前、漫画の自分の過去の話してたじゃないか」
『ん、ああ。それがどした?』
突然話が変わり、■■■は目を瞬かせる。
以前質問箱に、将来子供を産むべきか悩んでいる人の悩みが届いた。
”子どもが欲しいわけではないが、血のつながりはあったほうがいい、と言われて、悩んでしまった”、という言葉に、■■■は自分が孤児だった事を話してくれた。子供一人育つもままならない過酷な世界だったが、代わりにたくさんの育ての親がいて、兄弟がいた。
”思うんじゃが、子ども育てたい思う時って、自分に近いから幸せにしたいもあるよ?
血の繋がっている子でなくても、未来の子が幸せに生きてほしい思う気持ちあれば、親じゃ思うわ”
身を寄せ合って生きていたこと、そこが彼の心の拠り所だったことを懐かしそうに話してくれた。
「あれは、お前の子どものころの大事な思い出だ。でもさ、お前は物語の中で過酷な人生を歩んでいたから、それを誰かに言う機会なんてなかったと思う」
『そりゃあ…そうじゃろう』
「■■■は、過酷な運命を生き抜いて、そして全うした人間だ。その死に悲しみはあれど、大切なものを守って最後は笑って逝けた。死んだのはもはや運命だと思っている。それでもさ、ぼくがお前を■■■だと思いたいんだよ」
『さっきは思いたくない、言うたじゃろ』
「思いたくないのと、思いたいのと、どっちもあったんだよ。だってぼくはお前を…いや、■■■を幸せにしたかったんだ」
この一言を、振り絞るように言った。口が鉛のように重たい。ぼくにとっては、面と向かって言うにはあまりに烏滸がましい言葉だ。
『…お前』
「ぼくのような人間が、幸せにする資格も能力もないなんて分かっている。哀れみや、また救済者気取りかと言われたら、そうなのかもしれない。でも、ぼくは小さく細やかな存在たちだけでなく、お前も幸せになって欲しかった。理由なんかないけど、強いていうなら、ぼくの隣にいたからだ」
■■■はなにも言わない。ぼくは今の勢いを失わないように、言葉を続けた。
「最後に笑って行けた人に、何を言ってるんだと思う。でもぼくは、どうしようもないわがままだけど、物語に続きがあるなら、お前が笑える世界を作りたかった」
ずっと後悔していた。彼が物語で死んだという事実を読んでから。
僕が、安らかに眠っていた彼を呼び起こしてしまったのではないか。
散々喧嘩したけど、あいつでなければ、ぼくはここまで生きられなかった。
今でも漫画やアニメを見るが、ぼくにとって■■■は、一番心が強くて面倒見が良くて、筋の通った存在だ。
その心の形が、■■■であったことを、ぼくは誇りに思う。
「でも、ぼくと再会して、そんな暖かい思い出を誰かに渡せるくらい、お前は優しさを出せるようになれた。お前は■■■のまま、変わってくれた」
そう思ったら、今までの10年間を思い出した。最初は戦わせてばっかだったけど、この世界で飯食って酒飲んで、森とか山とか海とか行って、一緒に過ごしてきたことを思い出して。
「今気づいた。お前と幸せになりたかったし、少しはなれたんじゃないか。
そうしたら、出会えたのがこのぼくでよかった、って初めて思えた」
ぼくにも、彼がキャラクターであって欲しいと思う理由がある。
たとえ、幸せにするということで、相手の物語を書き換えてしまうことだとしても、その続きと共に歩きたかった。
『お前な…』
「ごめん、こんなこと今更話しても」
『顔上げぃ。こっち見ろ』
肩を叩かれ顔を上げると、■■■が眦を下げて、ぼくを見ていた。
普段は怒ったり悪人めいた笑みを浮かべたりと表情豊かな男だが、素の表情は凪いだ海のようだ。でもこれが、穏やかで安心しているときの表情だということは、10年間共に過ごしてきたぼくには分かっていた。
『お前なぁ、おばちゃんみたいな顔してワシ見るんよ』
「おばちゃん?」
おばちゃんというのは、彼を育ててくれた人だ。
『ワシに飯作って食わせたりしてる時も、煙草吸ってる時も、“美味いか?そうか、それでええんよ”いうてワシ見てたわ。それとおんなじ顔なんよ』
かなわんなぁ、思うてたわ。ちいさな声で付け足した言葉は、ぼくだけでない遠くの誰かに向けているようだった。
『お前がワシを”幸せにしたい”思ってたんくらい、出会ったころから知っとったわ』
「いや、最初はそんな、幸せにしたいどころか、戦わせてたし」
本当は戦いが好きではないことも見抜けなかった。
再会した時ですら、疑ってしまった。
『自分じゃよう分からんもんや。ワシがそう思ったんじゃけえ信じろ。哀れみなんていうのもな、そんなん感じなかった。お前自身ズタボロで余裕ないのにあがいてたんじゃ。感じるわけあるか』
■■■の言葉に胸が詰まった。もう、何も言えない。
『お前は自分が思うほど強くはなかったんじゃろうが、実力や身の程なんてもん言うんは動いてる間は分からんのよ。お前は、ただ傷ついた色んなものを助けたかった。今でもお前は何も変わってない。じゃけぇ、ワシが戻ってきたんや』
お人好しいうのは治らんもんじゃ。■■■はちびた煙草を灰皿に落とし、新しい煙草を咥えた。
ぼくの煙草はとっくに火が消えているが、胸に別のものが詰まっている今は、新しいのを吸う気になれない。
『けどな、一度間違えたらしまいか?落っこちたら、もうあかんのか?悪人は死んでも悪人のままか?』
「ちがう…」
優しい声から一転、低く唸るように彼は尋ねる。
わざとそう言わせているのが分かった。ぼくだけのことだったら、違うなんて言えなかった。彼自身もまた、一度落っこちた側だったからだ。
『違うやろ?なら、生きて背負って変われ。助けたいいう思いを抑えられんなら、その気持ちの中に自分も入れろ。おまえ自身も幸せになれ』
「…っ、わかった」
息を詰まらせながら、ぼくは声を振り絞って、これだけは伝えた。
「■■■、ぼくの………………」
自分の耳でさえ聞こえないくらい、か細い声だったけど。
『…おう。ワシもな。弟になってくれてありがとう、そう思うとるよ』
■■■には伝わったようだ。
◇
『君らさぁ、話なっがいよ。いつまでいちゃついてんのさ?』
廊下からクレオが顔を出す。縁側はすっかり日が暮れていた。
「気持ち悪いこと言うなよ」
『煙草吸ってただけじゃけぇ』
『いやいや長いですって。アケルが真面目な顔して庭に出たから、気を利かせて待ってたけどさ。一世一代の告白みたいになってるじゃあないですか』
おれを差し置いて、とクレオが唇を尖らせる。
『アケルの相棒は今はもうおれなんですからね!』
『そうなぁ。ワシ、兄貴じゃし』
『出たよ兄貴マウント。あ〜あ、あの時”もう少し居て”なんて言わなけりゃあなぁ』
クレオがぶつぶつ言い続けるも、■■■はあっさりと受け流す。
「夕飯冷ましちゃったのはすまん。もう話は終わったから、さっさと食っちまおう」
ぼくと■■■は縁側から立ち上がると、家に戻って行った。
ぼくはもうしばらく、この平凡で騒々しい空想と共に、日常を生きていく。
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