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書きことばの特徴を考える

「書いたものは残っちゃうから、できるだけ直接話しましょう。せめて電話で。」とたまに言われることがあります。

あとでその人の考えが変わったときに、以前書いたことが払拭されにくくなるし、文面だけだと受け取り方が違ってしまうからだそうです。

これって主流の考え方なのでしょうか?世代によりますか?

わたしは、いまの学校で働くようになってはじめてこういう考えがあることを知りました。

これまでは、むしろばりばりLINEで情報共有することが推奨される職場にいたので(これはこれで苦手だったけれど!)、「え?残っちゃだめなの?残るのがいいんじゃないの?」と最初のうちは軽く衝撃でした。

わたしはインターネット&メール文化(LINEではない笑)と共にぬくぬく育ってきた世代です。

個人差があるとは思いますが、コミュニケーションするときの人との心地よい距離感が、もうそのように仕組まれているみたいで、「いやいや、話すよりも書くほうが自分の想いを伝えやすいでしょ〜」とさえ思ってしまいます。

こうやってnoteを書きまくっているくらいなので、もともと書くことがわりと好きです。苦手だけど、語るよりは好きです。

でもここ数年、ことばには「生きている」「生きていない」があると知り、特に仕事道具としての「語り」を学ぶにつれて、「書く」と「話す」はうまく使い分ける必要があるな〜と思うようになりました。

先日も、Clubhouseでの体験をふり返って

“生きた情報のすばらしさを体感したところで、さあ、書きことば(note)とどうやってつきあっていこうかな?と考えています。”

と書いたところです。

まだうまくまとめきれないのですが、わたしの考える書きことばの特徴を綴ってみようと思います。

書きことばは、強くて固い

どこまでも膨らみうる目に見えない想い。それをぎゅーっと凝縮して、確かな形として現したもの。そういう意味で、書きことばには強さと固さがあると思います。

土水風火でいうと、土っぽいイメージ。

そういえば、書きことばのはじまりは「このまま(口伝)では消えてしまう」「失われてしまう」という生きたことばの危機にあると聞いたことがあります。

書くという行為を見てみても、広い意味では掻くのうち。攻撃性とまではいきませんが、意志の力がなくては成り立たないもののように思います。

そういう意味では、ほんのりと火の要素も感じます。

百年前に書かれた自分宛の手紙

ところで、わたしには「これはまるで自分宛に書かれた手紙のようだ!」と心震えた読書体験がひとつありました。

心理学者のC.G.ユングによって書かれた「心理学的関係としての結婚」という論文を読んだときのことです。

当時、セラピストとしてユング的な女性性の研究に強い関心を持っていたのと、パートナーシップに悩みすぎたのとで、嗅ぎ分けて嗅ぎ分けて嗅ぎ分けて、やっとたどり着いたのがこの論文でした。(そこらへんの書店ではなかなか取り扱っていなくて、区の図書館の書庫から引っ張り出してもらいました。)

そこに書いてあったのは、もうそれを生きた当事者にしかわからんやろ、というような秘教的なことばの数々。それまでどれだけ探っても肝心なところが満たされなかった魂の渇望が、一気に癒えました。

どんなに賢い学者さんが読んでも、体験なしには本当の意味でわかることはできないんじゃないか?素人がおこがましく心配してしまうほど、ピンポイントで刺さる内容でした。

ここまで神秘的な読書体験は、今後そうそうできないと思います。

書くことに含まれた祈り

人はいつかの誰かのために残したくて、ずっとずっと書いてきたんだな〜と思います。いま目の前の人にはうまく伝わらなくても、いつかの誰かには届き、そこで再び命が吹き込まれることを願って。

まさに、祈りですね。それが百年前に書かれたものだったりすると、尚のこと感慨深いです。

じゃあ、祈るように書こう!とは思わないけれど、ときどき、書かれたものに含まれる祈りを見つけてみようかなと思うのでした。

土水風火で自在にあみ出すことば

さ、ここからはプラクティカルな話!

書きことばは強くて固い。土っぽさに、ほんのりと火の要素。

ということは、書きことばが強すぎるとき、水のような流れと潤い、風のような軽やかさを含めると、マイルドにできるのではと思いました。

「なんだかおいしい」文章って、水や風を感じられる気がしませんか?好みの問題でしょうか。

場合によっては、妙に焚きつけられる感じも悪くないです。笑

土水風火のバランスは話しことばにおいても大事だと思うので、場面によってうまく使い分けられるよう、これから修行を積んでいこうと思いました。

サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡