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忘れられるくらいでいこう。

ひさしぶりの雨と休日。

ここのところ、年度末に子どもたちへ贈る「ことばの花束」(いわゆる通知表のようなもの)のことをずっと考えていました。

教師たちが一人一人にことばを綴り、水彩の絵を表紙にそれらを束ね、世界にたった一冊の本を仕立てます。

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あんなにむくむくと湧き立っていた創作意欲は、いざ形にするチャンスが巡ってくると100%の力を出し切れず。おまけに、今年度最後の授業もドタバタと終わってしまい、これでよかったのか!?という感じが拭えない最後でした。まだまだ。

でも、仕上がった二十二人分の「ことばの花束」はやっぱり圧巻。息がもれてしまうほどの、美しいとしか言いようのない光景でした。

少しでも何かが違っていたら、このような仕上がりにはならなかったでしょう。また同じものをつくろうとしても、二度と同じものにはならないでしょう。

こういうとき、わたし一人に圧倒的な力がなくても大丈夫と思えます。大きなものの一部に溶け込ませていただけることが、もう十分身に余るほどのことなのですから。

そういえば、今から二年半ほど前、大分の住み込み寮でふと

「子どもたち一人一人に(生まれてきてくれてありがとう)を伝えられるならどんな形でも良い」という気持ちがどば〜っと及んできたことを思い出しました。

特別なすごいことじゃなくていいから、ただ赤ちゃんを抱っこするとか、小さな子どもたちと一緒の空間で生活するとかで、ことばにならない交流をしていきたいと。(そう思った何ヶ月か後に、そういうチャンス満載のいまの職場に呼ばれる。)

自分のしたことはどんどん忘れられて、透明になるくらいがいいです。それも、「その他大勢」になって眠りこくってしまおうということではなくて、自分に与えられているパートをしっかり奏でていくイメージで。

自分に与えられているパートって何?その答えがわかれば動き出せるのに。

そんな風に探し求める旅はいつのまにか終わりを迎え、今はただ、病気でも、問題でも、なんでも目の前に来たものを迎え打っていこうという心づもりでいます。

その大元は太陽みたいな眩しさで、決して直視することはできないけれど、たしかにこちらへ降り注ぐ。いつでもそばに在る。そういう意味で、あちらとこちらとの間で起こること、その一点には"答え"につながるものが必ず含まれていると感じます。

その答えにどんな名前がついていようとも、今はあまり気にしない。

人生の先輩によると、「それ」にぴったりな名前をつけることでますます力が湧いてくるのだとか。いつかそういう名前を思いつくことができるのかな。またはぴったりと言い当てられるようになるのかな。

たまにはそういうことに想いを馳せつつ、いまはひたすら現在地を照らし進めていきます。明日は発表会。「ことばの花束」を届けてきます。

サポートしていただけたら、毛糸を買って何か編みます☆彡