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習うことと自主練はセットがいいな

オルタナティブスクールで、小学1・3年生の担任をしています。

先日、臨時休校明けの授業で、とてもうれしい&びっくりしたことがありました。

いつも、授業の中で季節や学習テーマに沿った詩をみんなと唱えているのですが(耳から覚える系)、ある子が、

ああ〜、わたし間違えて覚えてたな。休みの間、間違って練習してきちゃった!

と言うのです。

ほほう!お家で自主練してたのか〜!宿題にしてるわけじゃないのに、すごい。聞くところによると、普段からお風呂やトイレの中でやっているそうです。

ちなみに、その詩というのは宮沢賢治の「高原」でした。

「高原」
海だべがと おら おもたれば
やつぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪毛 風吹けば
鹿踊りだぢやい

ホウ!!のところで、とびはねながら一回転するという、楽しいフリのある朗唱です。(宮沢賢治さんご本人もそうしていたらしい)

三年生は、それまでの天国的な世界から、徐々に地上へと足をふみおろしていくことが課題の時期です。それに伴い、授業で唱える詩も、大地とつながるような、力強いものが中心となります。音の響き的には、濁点が多め。

自主練してきてくれるなんて、今回の詩のセレクトはとてもうまくいったようですね。確かに、この詩を初披露したとき、子どもたちの表情が一瞬にして明るんだ気がしました。

いのちの身体に栄養を

「耳から学ぶ」を、もうちょっと詳しく。

うちの学校の子どもたちは、一年生の頃からみんな、歌でも詩でも「繰り返し」「耳で聴いて」覚えることを習慣にしています。

低学年のうちは、テキストや楽譜を使いません。つまり、自らの記憶だけを頼りに、残響に耳を澄まし、拾い上げ、再び息を吹き込むというプロセスをしつこく体験するのです。

それって、とっても気持ちがいいことです◎

「あぁ〜〜〜、そうだったそうだった!」「そうそう、それそれ!」って記憶が蘇る感覚。再会の感覚。みなさんも、よくご存知なのではないでしょうか。

想い出すたび、蘇るたび、再会するたび、心や身体がいきいきとします。そういう意味では、「忘れる」ことにだって、すごくすごく前向きです。(この辺りの話は、またいつか詳しく書きます。)

わたしは授業をする人なので、先立ってそれを体現しなくちゃならないのですが、こればっかりは、役得(心地よい負荷)だな〜と日々感じています。

それぞれの余韻で

耳から覚える授業って、とにかく余韻が残るんですよね。

わたしは、授業が終わったあともいつまでも耳に残って、家事をしながら、手仕事をしながら、つい歌や詩を口ずさんでしまうことが多いです。

それは子どもたちも同じで、何かにつけて「う○こ」と言うのが大好きな小三男子は、授業でやった詩や歌、ネタのぜんぶを「う○こ」にして口ずさんでいます(笑)

ゆ〜きがふります しんしんしん♪  → う○こがふります しんしんしん♪

「う○こ」ネタ。同級生の女子たちはもう飽き飽きして反応すらしないのに、わたしだけがいつまでも笑っています。(何十周も回って、まだ面白いんですが、どうしましょう。)

ちょっと話が逸れましたけれど、とにかく子どもたちは授業のネタを自然とお家へ持ち帰るので、「ほ〜、今こんなことを習っているのか」と、お家の人が知ることもあったりしますね。

きっと自主練してきた子も、そんな余韻の中から汲み出してやっていたのでしょう。しかも、それはどこか「気持ちの良いこと」だと、ちゃあんとわかっている気がします。(ちなみにダンサーの娘)

間違った自主練でもいい

ネタはなんであれ、自主練の習慣があるって、素敵です。

これまで、たくさんのことを習ってきて、また教える仕事をやってみて、【習うことと自主練はセットがいい】と強く思います。

たとえ「間違った」自主練だとしても、無駄になることはありません。やった分だけ、習ったときに修正して身体に刻むのが早くなります。(自分の身体と通い合っているからかな?)

反対に、習うばっかりでも、自分の身体で深めていくことをしないと、いつまでもお客さんから抜け出せません。どうしても本人がすることでしか行けない領域があります。教える人が、代わりにはやってあげられないのです。

秘儀や奥儀と呼ばれるものも、自分の身体と通い合って、はじめて意味が出てくるのだと思います。

あ〜、こうやって書きながら、「ちゃんと先生にフィードバックもらったほうがいいな」とか「もっとちゃんと稽古しよう」とか、できてないことがたくさん思い浮かんできました。

自分の現在地はどこか、常に問うていきたいです。

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