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【ショート小説】家出をした。暮れてく空に希望がないから。

 俺はときたまに、カラス君と話をすることがある。カラス君はいつもいろんなことを俺に伝える。いつだか俺はカラス君にこう言ったことがあった。

「これから先に、良いことなんて何もない気がするよ」

カラス君はそれを聞いて言った。

「いいや、これから先にも良いことはいっぱい起こるよ」

カラス君はよくきれいごとを言う。俺はカラス君のきれいごとを鼻で笑った。けれど、カラス君が言うきれいごとで少し気持ちが軽くなってもいた。

 地球が公転をやめて、自転の方もほとんどしなくなったのは俺が生まれるより百年くらい前のことだったと父から聞いている。祖父がまだ子供だった頃は、一日のうちに朝と昼と夜があって、その光の移り変わりはとても美しいものだったらしい。そんな目まぐるしい一日は、今では考えられないことだ。 父が生まれたときには、太陽が西にかなり傾いていたけれど、まわりはまだ明るく、アブラゼミやミンミンゼミがずっと鳴いていて、空が青く、眩しいくらいに雲は白くて素敵だったと言っていた。

 俺に物心がついたときには、空は赤くて太陽は地平線につきそうなほど沈んでいた。俺の知っている景色はカラスやひぐらしが一日中鳴いて、一年が経つたびにほんの少しあたりが暗くなる、そんな哀愁漂う景色だけだった。きっと俺は、明るい世界を見ることなく死んでしまうだろう。いつかとても長い夜が来る。それを考えまいとして、町の人たちはよく昔の話をしていた。

 中学の卒業を控えていた俺は、この先の進路を想像して絶望していた。何も楽しいと思えることを見出せなかったからだ。進学も就職もしたくなかった俺は、どうしても現実から逃げ出したくて家出することに決めた。もちろん、一人で暮らしていくための算段があるわけではなかった。もうこれ以上生活ができないという状況になったら、死んでしまってもいい気がしていた。

 両親が寝ている隙に、持てるだけの食料と寝袋と財布をリュックに詰めて俺は家を出た。空は不気味なほどに赤く、地平線付近は藍色に染まり始めていた。四方八方からひぐらしの鳴く声がした。どんなにあがいても、お前の未来は変わらないさと言われている気がした。

 歩き始めると、俺の肩に一羽のカラスが止まった。それはカラス君だった。カラス君は言った。
「家出なんてしない方がいいよ。君は絶対に後悔することになる」
俺はカラス君の言ったことを、無視して歩き続けた。

 俺が家出してから最初に向かったのは最寄り駅だった。最寄り駅に行こうと思った理由は二つある。一つは単純にどこか遠くに行きたかったから。二つは今の自分の暗い気持ちを紛らすために、にぎやかな場所に行きたかったからだ。

 俺が駅前をふらふらと歩いていると、酒臭いおじさんに話しかけられた。
「おう、何やってんだ。子供が一人で飲み屋の通りなんかうろついて。さては家出か?」
俺はそのおじさんが纏っている気さくな雰囲気に流されて、正直に答えた。
「はい。これからの人生に希望が見出せなくなって」
それを聞いておじさんは笑った。
「ははは、たしかにな。人生なんて楽しいもんじゃねえさ。そしてこれから、どんどん楽しいことはなくなっていくだろうよ」
おじさんはそう言いつつ、片方の口角を上げた。
「だから幸せになりてえなら、誰かの幸せを奪い取るくらいの覚悟を持たねえとな」
「幸せを、奪い取る?」
「そうさ。これから夜の時代が来る。鬱々とした、嫌気がさすような時代だ。けれどそれは、逆にチャンスさ。暗闇の中じゃ、あんたが少し自分のためにずるいことをしたってばれやしない。どうだ?家出してるなら、俺のところに来るか?ほら、よかったらこの酒やるよ」
そう言って、おじさんは俺にワンカップを差し出した。
 
 おじさんのような生き方をすれば、この先の暗い未来から抜け出せるだろうか。俺はワンカップに手を伸ばしかけていた。頭上でばさばさと音を立てながらカラス君は言った。
「だめだ。受け取ってはいけない。悪いことはいつかばれるよ。受け取ってはいけない」
カラス君のきれいごとを、俺は鼻で笑った。ばれてない悪事だって、世の中にはたくさんあるだろう。カラス君の言葉は、さらに俺の気持ちをおじさんの方へと傾けた。伸ばした手はあと少しでワンカップに触れる。けれど、俺の手は震えていて、あと少しの距離を埋めることができずにいた。急に、怖くなったのだ。結局俺は手を下げて、すいません、やっぱりやめておきますと言った。おじさんは俺の言葉に傷ついたようで、一瞬、顔を歪めた。そして、何も言わずに路地裏の方へと去っていった。頭上でカラス君はそうだ、そうだ、それでいいんだと言って笑顔を見せた。

 その後、急に海が見たくなった俺は、電車に乗って海沿いの駅を目指すことにした。電車に乗っている間、カラス君はうんざりするほどたくさんのことを言ってきた。将来のためにも進学はするべきだ。友達は作った方がいい。あまり深く考え込まない方がいい。

 電車を降りて、十分も歩くと海に着いた。海は太陽の光を反射して、赤く輝いていた。俺は砂浜に座って、ずっとその海を眺めていた。俺はカラス君に話しかけた。
「カラス君は、これから先にも良いことはあるって言っていたよね」
カラス君はそれを聞いて答えた。
「うん。世の中はこれからも良いことがたくさん起こるよ」
「どうして、カラス君はそう思うの?」
「・・・・・」
カラス君は何も言わなくなった。
「カラス君は、無責任だよ」
「・・・・・」
俺はカラス君が何か返答するのを待った。けれどしばらくしてもカラス君は何も言ってこないので、俺は空を見上げて鼻で笑った。そのとき、カラス君は急に言った。

「君がそう思うなら、どうして僕は君のそばにいるんだい?」

俺は驚いて、ばっと隣にいるはずのカラス君を見た。そこにカラス君はいなかった。遠く向こうの方で、一羽のカラスが鳴いているのが聞こえた。俺は立ち上がって、遠くまで続く砂浜を歩いた。ひぐらしの鳴く声も、カラスの鳴く声も、渚の音も、夕焼けも、俺の気持ちに共感してくれているようで、心地よかった。俺はカラス君が、世の中はこれからも良いことがたくさん起こる、と言っていたことはあながち間違っていないのかもしれないと思った。けれど、その理由はきっと自分で見つけ出さなきゃいけないんだ。

 お腹がすいた俺は、家から持ってきた食料を出して食べることにした。リュックの中の食料や財布に入っているお金を見て、あと五日も過ごせたらいい方だろうと思った。けれど、もう家には帰りたくなかった。俺は寝袋にくるまって、明日からどう生きるかを考えながら眠りについた。

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