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紙の月が浮かぶ日に

「あなたはどんな人間ですか?」と聞かれたら、人は自分自身のことを上手く説明できるのだろうか?
どんなことが好きで、何が欲しくて、どんな風に生きるのか、そのビジョンを明確に持っている人ならば、はっきりとその答えを出せるのだろうか。私はどんな人間で、何が欲しくて、この世界に何を与えられるのだろう?
そしてそもそも、そんなことを考えることに一体何の意味があるのだろうか。
自分のことなんて分からなくても、人生はその瞬間その瞬間が楽しければそれで良いじゃないか。そんなことを考える私は梨花のように容易く足を滑らせ簡単に転落していく素質を持った予備軍なのだろうか…。


結末が分かっていても、何度も手を伸ばしてしまう小説がある。私にとってその中の一つの物語が『紙の月』だ。
角田光代さんの長編小説『紙の月』は、2014年に映画化もされたベストセラー小説で、読んだことはなくとも、大まかなあらすじを知っている人はたくさんいるだろう。
夫と2人で暮らす平凡な主婦だったはずの一人の女性が巨額の横領事件を起こし転落していく物語だ。
この物語のあらすじを知った上で読み進めると、派手ではないけれど人に好かれ、品があって美しい、主人公・梨花の性格の描写に多くの人がとても共感するだろう。あぁ、こういう大人しそうな人が突然ぶっ飛んだとんでもない事をしでかすんだよな…などとそのような人とは実際関わったことなどないにも関わらず、架空の人物である梨花をとてもリアルに感じる。
大人しそうな様子で、自分の意見を相手に押し付けることもなく、全てに対してどこか冷めている、どこにでもいそうでいないその女性は、突然ぶっ飛んだ選択をし、転落しそうな雰囲気しかない。

梨花は私ではない。あなたでもない。
めちゃくちゃいそうではあるけれども、自分の感情を重ね合わせることのできる主人公かといえば、少し違うだろう。これはすべて作り話だ。
しかし、梨花の視点で描かれる世界と、事件後、梨花と関わりのあった友人たちの視点で描かれる世界を交互に読み進めるうちに、梨花の浅はかに見える行動は、どこかとてもリアルで全くの他人事ではないように思えてくる。
紡がれていく文章にまるで魔力でもあるかのように、説得力をもって進む架空の物語にズブズブと入り込んだ私は、きっと人はみんな心の中に、決して踏むことのない、踏み込んではならないアクセルを持っているのではないだろうか…などと考える。梨花はそのアクセルを思いっきり踏み込んでしまっただけだ。



料理教室で梨花と出会った亜紀は、元夫と暮らす年頃になった娘と会う日を楽しみに暮らしている。
ある日、亜紀は窓ガラスに映る自分を見つめ思う。娘に会うために買ったばかりの服を着て、家を出るときには完璧な化粧で完璧なコーディネイトをしていると思っていたのに、窓ガラスに映る自分はひどくみすぼらしく、
“母親にも妻にもなり損なった、そればかりか、自分自身にすらなり損ねている頼りない女”だと。

ふと窓に映る自分の姿を見て、亜紀と同じことを考えたことがある人はどれぐらいいるだろう。
きらきらと輝いて見えたこの服は、本当に自分に似合っているの?
もっと袖の形が違ったら、丈の長さがこれぐらいだったら、もっと綺麗に見えるんじゃないか…。完璧だと思っていたのは束の間の出来事で、すぐにもっと欲しいと欲が出る。まだ足りない、もっともっと、私はこんなはずじゃないのだと、とめどなく物欲は生まれる。
綺麗になりたくて、“綺麗に見える”ように取り繕おうとする。根本的な物事からは目を逸らして…。
では、綺麗になりたいのはなぜだろう?
それは他人に幸せな人だと思われたいからだ。
幸せになりたくて、手軽にお金という紙切れで交換できる物で取り繕う。本当に満たしたいものは紙切れだけではどうにもならないのだと、どこかで私たちは知っているのに。


梨花の“モトカレ”である和貴は妻に問う。
「これがあるから幸せだって言えるものを、お金じゃなくて、品物じゃなくて、おれたちが与えることは無理なのか。」

そう、私たちは与えたいのだ。
誰かの為になりたい。誰かに必要とされたい。何かを与えることで人の上に立ちたいのではない。ただ、誰かの救いになれたら、それこそが自分の求める幸せなのではないか。だから頼れる人になりたい。頼ってもいいのだと思える余裕を持った、幸せな人だと世間に認めさせたい。
何でもしてあげたい。幸せを教えてあげたい。目の前に困っている人がいて、お金であげられる救いがあるのなら簡単だ。他には何も持っていない、何もない“自分自身”はその瞬間、誰かにとって必要な存在になる。本当の幸せが何か分からないけど、そんなことでお互いに幸せごっこができるなら安いじゃないか…
そんなことを考えているのかもしれない梨花や亜紀は、梨花と出会い通り過ぎていった人たちは、自分たちとは遠い、浅はかで悲しい人たちなのだろうか。ひょっとしたら、誰の心の中にも彼女たちが住んでいるような気がしてならない。


物語の中に、デリバリーのピザが30分を過ぎて半額になるというシュチュエーションがある。
一度目は夫といる時に、二度目は年下の恋人・光太といる時に。梨花はピザが半額になるかどうか、その結果を楽しみに待つ。それは安く済ませたいという欲求ではない。その楽しみを分かってくれる人がいたら、喜びを一緒に味わえる人が隣にいたら…物語の中で紡がれるその多幸感に涙が出そうになるのはそれが幻だと知っているからだろうか。チープな楽しみを分かち合えるという贅沢な幸せは、呆気なく消えてしまったまやかしで、とんだ茶番で、それでも現実であってほしい希望だ。
それはまるで、まだ明るい空に浮かぶ紙のような月みたいに、いつもそこにあるのに決して掴めない今にも消えてしまいそうなそれに似ている。


梨花が巨額の大金を動かし手に入れたものは何だったのだろう。
何を失って、何に怯えているのだろう。


帰り道を失った亜紀のように、この本を読み終えるとき、私はいつでも迷子になる。
梨花のようにその気になればどこまでだって走って行けるだろう。それでも自分で選択した今という時に留まることを選んでいるのだ。それなのに、この本を読み終えるとき、どこにでも行けるのにどこにも行けず、ただ日々を彷徨っているだけのような、置き去りの気持ちになる。自分の感情の正解も物語の受け止め方の正解も掴めず、角田さん、何を思えばいいんだよ……と道を失った迷子のように泣きじゃくるのだ。


主人公や登場人物に共感し、胸を震わせ、癒してくれる柔らかな物語はそこにはない。それでも私はなぜか、何度もそのページをめくり、梨花の転落と疾走を追う。制御不能の自由を手にした梨花が、どこまでも逃げ続けることを祈る。
誰か止めてと叫ぶ心で、強かに、転がるように走り続けてくれと願う。


「あなたはどんな人間ですか?」と聞かれたら、梨花は何と答えるだろうか?
梨花の見つけた私自身のことを想う。
あなたが本当に欲しかったものは?
なりたかった自分は?
あなたが誰かにあげたかったものは何…?


『紙の月』はとんでもないことをしでかし転落していく女性を描いたエンターテイメントではない。この複雑な世界で自分を捜しサバイブする女性たちの冒険記だ。
すべてを振り切り駆け抜ける爽快感と、その悲しい美しさや虚しさ、強かさの向こうに、見つけた瞬間、再びこの手の中からこぼれ落ちていくような永遠の問いを握りしめて、きっと私はまたこの物語の扉を開くだろう。


空には“さっとナイフで切り込みを入れたような細い月”が浮かんでいる。





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