美術館に行くということ。

こんにちは。お久しぶりです。
イデオロギーコオロギーです。
今回は最近疑問に感じている美術館に行くという営みについて自分の考えを書こうと思います。
最後まで読んでいただけると幸いです。
よろしくお願いします。

さて、皆さんは美術館に行きますか。
僕は最近は美術館という施設、そこへ行くという営みに対して大きな違和感を感じています。

初めに直截に僕の意見を述べたいと思います。即ち、美術館というのはあくまで他人が高く評価した絵の集合体に過ぎず、そこに行って感動を覚えるというのは極めて受動的な、主体性のない営みではないか、ということです。
多大な反感を買うようなことを書いている自覚はあります。
ですが本当にそのような客体的な接し方でいいのでしょうか。

実際に具体的な例をあげてみたいと思います。
史上最高の美女とも言われる、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザ。美男美女が多いフランスでこの絵画が完成したから美女だと言われるのかどうかは知りませんが、これまでモナ・リザの絵に感動したことのある人の中でどれほどの人がモナ・リザに関する事前情報や評判を全く知らない状態でも同じ評価をするのでしょうか。

モナ・リザが美しい。ミケランジェロの天地創造はスケールが大きくて圧倒される。モネの睡蓮の池は瑞々しくて清潔だ。

今日の人々はそんな前評判と実際の自分の目で観て感じたことの答え合わせをするためだけに美術館へ足を運んでいるのではないでしょうか。
そしてそこで感じたことが前評判と違っても、美術館という権威に従って「よく分からないけど多分いいっていうことなんだろう」という感想を抱くのではないでしょうか。

これは〇〇展として催される展示会に限った話ではありません。
「美術館」に行くという行為自体が答え合わせになっているのではないでしょうか。
美術館に展示されているということは”いい”作品であるはずだ。
美術館に展示されているということは”お金を払って観る価値がある”作品が飾られているはずだ。
美術館に展示されているということは私も”好き”な作品があるはずだ。
こういった、美術館に対する根拠の無い全幅の信頼がそこにはあるのではないでしょうか。

そこで生まれた好きな作品というものは自分が全ての点において心の底から敬愛できる絵ではなく、誰かのフィルターを通った、言わば限られた選択肢の中から妥協して選んだ好きな作品なのではないでしょうか。

その逆も然り、ゴミの山とも似つかわしい自分にとって魅力的では無い作品の山の中から自分の力で見つけ出した自分の拠り所となる素晴らしい作品に対しては揺るぎない信頼と絶対的な愛情が生まれるのではないでしょうか。

そういった作品を見つけて初めて美術という分野から生き方や行動に深さが出るのではないでしょうか。

私たちは人間で、極めて稀なほど大きな体積の脳を持ち、理性という秀でた武器を持っているのですから、それを活かして隅から隅まで自分に合うものを見つけようとしないのはあまりに勿体ないと思います。
他人の受け売りで作品に感動し好きな作品を持つくらいなら、いっそのこと全てを諦めて芸術に触れないようにすること、芸術を諦めて芸術ではない他の分野から深みを出そうとすることの方がより理性的なのではないでしょうか。
僕はそう考えます。

最後までお付き合い頂きありがとうございました。
イデオロギーコオロギー。

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