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好きなアイドルがラッパーになって考える、男性社会における評価の不思議

和哉くんの生誕noteで、「ラッパーデビューについても何か書くと思う」と書いてから気づけば二か月半が経った。二か月半も何をしていたのかというと、あのnoteを書いてから燃え尽きたかのように文章を書く気が無くなり、五月には五月病なんて温度では済まされないほどのドデカ鬱に苛まれていた。仕事だけは、仕事だけはとパソコンに貼り付いたり最寄り駅まで這いつくばったりしながら、その間にまた新しい救いの音楽に出会って通勤電車で静かに涙を流したりライブハウスの最後列で嗚咽を漏らしたりなどしていた。

さて、やっとこさCuegeeさんについて書こうと思う。そして、色々考える中で生じた男性の謎について。




彼の発言についてはキラリでのものと、6月5日に出たこの2つのインタビューを中心に掘り下げます。まだ読んだことのない方がいれば、是非。

本人曰く松村和哉とCuegeeは別人格で、その設定を遵守しないと怒られそうではあるのですが、境目が曖昧で難しいところは”和哉くん”で統一することをお許しください。



好きなアイドルがラッパーになって考えること

改めて、私の大好きなアイドル、SUPER★DRAGONの松村和哉くんが「Cuegeeきゅーじー」という名義でラッパーとしてデビューしました。

4月14日の午前0時、彼はバースを蹴った裸足で私の心をも蹴り上げたのでした。まず、この発表を十代最後の日にしてくれたことが本当に嬉しかった。彼曰く「将来”いつからラッパーやってるんですか?”と聞かれた時に十代からですと答えられるから」らしいんだけど、私も誕生日当日より十代最後の日に休みを取って二十年生きた証にピアスを増やしに行ったりプレゼントを買いに回ったりしていたので、誕生日当日より十代最後の日を大事にするこの感覚が似ていたのがとても嬉しかった。


〈隣見れば光るteenager〉ってこっちのセリフすぎるやろと思ったけど、幼少期から仕事が生活の当たり前にあった和哉くんからしたらこっちが光って見えたのかな。

大好きな秋山黄色の「エニーワン・ノスタルジー」という曲に〈子供は子供が仕事さ 大人は仕事が仕事さ〉という歌詞がある。子供のうちに仕事を仕事にした和哉くんにとって、ニ十歳までの一般的に”子供”と呼ばれる期間はどんなものだったのだろうか?楽しかっただろうか?


〈血より濃い繋がりに縛られたお前も道連れ

この曲を初披露している現在開催中のスパドラのツアーでのパフォーマンス中、彼はこの歌詞のところで舞台袖を指さすので”お前”というのはきっとメンバーのことを書いてるんだと思う(そりゃオタクと血より濃く繋がっているわけがない)。でもね、年始に和哉くんのキラリの浮上率が不自然に下がった時、私はまたまた秋山黄色の「PAINKILLER」をひどく感情移入しながら聴いていて〈境界線を超えるから道連れにしてくれ〉という歌詞に共鳴していたので、たとえ本当は私達のことではなくとも、そうとも解釈できる歌詞を書いてくれたことが本当に嬉しかった。初めて聴いた時はこんなことあるのかとびっくりした。


あと〈鳥籠から飛び出す今 取り囲めよギャラリー〉がシンプルに気持ち良くて好き。



きっとこの曲に感動できる人って今までの彼を知っている人だと思う。あんなこともあったねそんなことも思ってたんだねって、過去に想いを馳せられる人。わたしは好きになって日が浅いので彼を知る素材みたいに受け取ったけど、見ず知らずの人からしたら正直ただの自分語りではある。これから無名のラッパーとしてヒップホップシーンに参入していくに当たって、Cuegeeさんがどんな曲を書くのかすごく楽しみです。


Cuegeeさんはヒップホップシーン全体について、「もっと自由に、オルタナティブになってもいいのに、っていうもどかしさも感じる」「ヒップホップシーンの住人の方ってオーバーグラウンドを敵対視するところが無きにしも非ず」「ヒップホップは与えられなかった人たちが一発逆転するための音楽みたいな印象を、未だに皆さん持っている気がする」と言っていた。まさにその通りである。

彼の言う通り、無知の私からするとヒップホップって「生まれた場所や容姿や環境に恵まれず思うようにアートに取り組めなかった人たちが否定されない居場所と共感できる仲間を見つけて地下でやっている」みたいなイメージなんだよね。そしてこの点、Cuegeeさんの言葉を借りれば彼は”与えられた人”なのである。民衆が歓声を上げてしまう程の容姿を持ち合わせて生まれ、幼少期からずっと大きな事務所に守られて、東京のプロの音楽がいつも傍にあって、それに参加しようと思えばできた人。

きっと誰かにとってはコンプレックスの塊みたいな人だと思う。特に、地下にいる人にとって。Cuegeeさんは恵まれた自分をどうアプローチしてここに認められようとするんだろうとずっとワクワクしている。「こんな俺だって辛かったんだぜ」みたいな言い分は彼らしくない気がする。


”アイドル”という肩書きを持った彼がヒップホップをやること、顔が良いやつが音楽をやること、そして彼が連れてきた私達のような客へのヘイトはきっと起こり得る。それを無視することもできるけど、彼は今まで理不尽に対して積極的に噛みつくことで消化してきた人だと思うからきっと何かアクションを起こすんじゃないかと思う。楽しみ。


キラリの配信で「ラップが上手い人は俺のラップを評価してる」みたいなことを言っていたことがある。彼にとっての”ラップが上手い人”の基準もその人にとっての評価の基準も分からないのでこの真偽は私には判断できないとして、彼は同業者からの評価をとても誇りに思っているんだなと感じることが度々あるのだ。

そりゃそうだ。私も文章を書く人に自分の文章を褒められたら嬉しい。でも商品価値を決めるのは消費者なので、もともとヒップホップシーンにいたオーディエンスが彼にどんな反応をするのかもすごく楽しみ。例えばCuegeeさんをイベントに呼んだ主催者や共演者が彼を評価していても、その会場の客がどう思うかには関係ないと思うんだよね。彼がどんな音楽を展開していくのかとは別として(きっと私は彼の声が聴こえるというだけで”良い曲”だと思ってしまいそうなので。)、そこにどんな反応が返ってくるのか?はたまた反応すらされないのか?そもそも彼はオーディエンスから評価されたい(=大衆人気を得たい)のか?想像もできないことばかりで本当にワクワクする。


この評価を実際肌で感じたい気持ちは山々なんだけど、今日発表されたイベントから察するに私はCuegee現場には通えそうにないので、めちゃくちゃパブサしようと思う。ツアーの初日に「Straight up」のイントロが流れた時は正直ソロ曲初披露ここじゃなくないか(東大医学部頭悪くないか)と思ったけど、私が私の生活を抱き締めながら行けるCuegee現場がいつ来るか分からないので聴かせてくれて助かったかも。





男性にとっての男性アイドル

そしてここから、松村和哉アイドルCuegeeラッパーデビューについて考える上で浮かんだ男性社会の謎に対する話をしたい。当然明確な答えは出ていないので女性である私がひたすらに疑問を提起して終わる。


中心となるのは、サムネに設定したCuegeeさんの発言である。

今でもラッパーの方とお話するときにアイドルですって言うと、それだけで話を聞いてもらえないこともあるんですよ。それだけでつっぱねられちゃうみたいな。

これは、職業差別ではないのか?

これの前にこんなことも言っている。

僕がきっかけで繋がっていくアングラのラッパーの方が“アイドルでもこんなカッコいいことしている人たちいたんだね”って気付いてくれるようになって。SUPER★DRAGONに対してそういうことを言ってもらえるのはすごくうれしいですね

本当にうれしいのか、これは。私は全然うれしくない。怒っている。


"アイドルでも"という謎の上から目線は何だ?



ヒップホップをやる人間が、ひいては男性全体が、男性アイドルをどこかくだらないもののように見ている雰囲気は一体何なのだろうか?ヒップホップって”お互い否定せず好きなこと楽しもう”みたいなマインドっぽいのに、職業だけで相手を拒絶することは平気でやるのはどういう精神の構造なんだ?怒っていると書いたが、単純に疑問だ。

たとえばそうやって和哉くんをアイドルという属性だけで一旦は拒絶した人がCuegeeさんの音楽を聴いて”良い”と思った場合、それはCuegeeのことは認めるがSUPER★DRAGON・松村和哉のことは認めないということになるのだろうか?


今読んでいる中村うさぎさんの「私という病」という本の「男の『自己正当化』病と、女の『引き裂かれ』症候群」という章に、「デリヘル嬢になった体験をコラムに書いたら、からかうようないたずら電話がかかってきたり久しぶりに会った人に肩に触れながら馴れ馴れしく話しかけられたりした」「これはまさしく職業差別で、セックスを生業とする女性は社会的地位が低いため横柄な態度を取っても良いと男性は思っているのだ」というような記載がある。

男性アイドルに対しても、これが効いているんじゃないかと少し思うのだ。勿論セックスを売っているわけではないが、性行為と恋愛そのものが近いところにあるとするならば異性からの好意をお金に変えて生計を立てている男性アイドルも、なんとなく馬鹿にしていい対象のように考えられているのでは?と思う。ちょっと的外れかも。でも少しでも思ったので書いておく。



改めて、男性が男性アイドルを嫌うのは何故なのだろうかと考えると、やはりキャーキャー言われる若くて瑞々しくてイケている男が気に入らない、というのがあるのだろうか?音楽に向き合っていないから(他人が作った歌をいっちょ前に歌っているから)だろうかと考えたけど、最近は自給自足アイドルなんてごまんといるのでこの可能性は一旦無し。「女にキャーキャー言われてる奴なんて」という考えなら、女性の「キャー」に価値が無いのは何故なのだろうか?




男性にとっての同性からの評価の価値

女性の「キャー」より男性の「うぉー」の方が価値が高いらしいということに私が確信を持ったのはヤングスキニーのボーカル・かやゆーのこのツイートだった。


女性より男性からの評価を重んじるのはバンド界隈でもよくあることだ。男に評価されてナンボである、という価値観。女性の「キャー」なんてただカッコいい人に対するちょっとした恋心に違いない、こいつらは俺らを本当に評価なんてしていないのだ、そこに中身なんてない、という考え方。え?これって女性蔑視なのでは?と思うが、一旦置いておく。

女性にキャーキャー言われる同性を嫌いながらも、結局欲しいのは同性からの評価なのである。私は何かを持っている人を羨む時、自分も同じものを、多く、またはよりよい品質で手に入れることでしかそのコンプレックスは解消されないと考えるので、「自分もキャーキャー言われるように頑張りたい!」とならない男性の思考を不思議に思う。


ところがどっこい、これが一般人となると途端に”女性からのモテ”がステータスになるのだ。どんな美女と付き合ったとか、何人とセックスをしたとか、そんなことが己の価値となるのである。なんだ?これは。普通は女性からの好意の質量がその人の価値に直結するのに、己をアートに投影した途端その作品への女性の評価の価値は暴落する。なんだ?これは。分からない。





何も解決していないけど、まとめ

そもそも”男性アイドルは男性に評価されないもの”という大前提があるからこそ、「男だけど好きになっていいですか?」とかいうくだらない質問が生まれたり、男性アイドルが男性ファンに特別な対応を行ったり、メンズ〇〇(ファンダム名)という本人が何故か得意げに使うだけの言葉が誕生したりするのである。私はこれらのすべてが嫌いだ。


男性が、女性にキャーキャー言われる男性を嫌うのは何故だ?女性の「キャー」を空虚と見なすのは何故だ?と考えながら、安井謙太郎くんかみさまのこの名言を思い出すのである。

画面で見て、キラキラして楽しそうでなんかラクそうでっていうイメージでいいと思います。俺のプライドがあるとしたら、見せないこと。それでいいです、楽しそうでチャラチャラしてそうでラクそうで、それでいい。それが1番嬉しい、そういう風に見られてることが。

アイドルが大好きだ。





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