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「山の音」読書感想文

著者

川端康成(1899~1972)
5月13日読み始め5月19日読了。

あらすじ

 ボケ始めた初老の男性、尾形信吾の目線で、家庭内のゴダゴダを描いた作品。

印象に残った人物

菊子。信吾の息子修一の嫁。嫁という立場をわきまえ、夫の浮気に耐え、出戻り娘の房子にも気をつかい、家庭内の潤滑油の役目をいかんなく発揮する健気な菊子がとても健気。義理の父である信吾にとてもよく懐き、時に涙まで見せる。それはそう、まるで思春期の頃の恋心を、読者(男性限定かな?)に抱かせる。読後、菊子が好きで好きでたまらなくなる。

感想

 何の気なしに数ページを読んでみた。最後まで読むつもりは、その時は全くなかった。それなのに、序盤の次の描写で一気に引き込まれた。主人公信吾が夜中、妻保子のいびきで目を覚ました後の描写。

 枕もとの雑誌を拾ったが、むし暑いので起き出して、雨戸を一枚あけた。そこにしゃがんだ。
 月夜だった。
 菊子のワン・ピイスが雨戸の外にぶら下がっていた。だらりといやな薄白い色だ。

川端康成「山の音」P10

 雨戸を一枚あけて見上げると、幻想的なお月様が浮かんでいる。その傍らには菊子ワンピース。この対比がなんとも絵画的で、私はまるで、細長い筒のようなものにスルリと入り込む鰻のように、何の抵抗もなく、この物語の世界に入り込んでしまった。
 さらにその後、タイトルにもなっている「山の音」の描写が続く。山はわりと家の近くにあるようだが、果たして一体どの程度の距離なのか掴みかねていた。そんな時に出てきたこの一文。

頂上の木々のあいだから、星がいくつも透けて見えた。

川端康成「山の音」P12

山が家に迫り過ぎていると、木々が邪魔をして頂上は見えない。なので、ある程度の距離があることがわかる。ではどの程度の距離かというと、「頂上の木々」のシルエットが確認でき、なおかつその間から星が見える程度の距離。これで、山とは言ってもそれほど高くないことがわかる。これを「頂上の木々のあいだから、星がいくつも透けて見えた。」という、まるで絵でも見ているかのような簡潔で分かりやすい一文で表現してしまうところに、川端康成の巧みさを感じた。
 そんなこんなで、序盤で完全に心を掴まれて読み進めたわけだが、物語としては、家庭内のゴダゴダ(といっても昭和初期ならどこの家庭でもあるような問題)を信吾の目を通して見せられているだけで、特にこれといって大きな事件があるわけでもない。正直、退屈だったが、物語が中盤を過ぎた頃から様相が変わってきた。なんだか物語に勢いがついてきて、ページを次から次へと捲りたい衝動にかられるようになった。なぜだろうと考えたが、これはおそらく前半にかけて人物や人間関係を丁寧に描写してくれたおかげで、それぞれの人物に対して感情移入してしまっていた(させられていた)せいなのかもしれない。その、いわば“下準備”が中盤を過ぎて花開き、またそれと同時に物語自体も展開に変化があり、その相乗効果でまるで自分が登場人物の一人にでもなったかのような錯覚に陥ったのだと思う。

 この「山の音」は主人公信吾が六十二歳という設定で、一見地味な小説のようにも感じられるが、読んでみるとそうではないことがわかる。信吾は菊子を通して、初恋の相手(妻保子の姉)を思い起こしたり、性的な夢を見たりする。その様子はまるで、好きな女の子に想いを伝えることが出来ずに一人モヤモヤする中学生のようでもある。そう、この「山の音」は、初老男性が演じる青春小説でもあるのだ。今風な言葉でいえば「永遠の中2」、それがこの小説である。


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