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ガリバー旅行記

著者

ジョナサン・スウィフト(1667~1745)
3月6日読み始め3月17日読了。

訳者

柴田 元幸

あらすじ

 家族持ちのくせに旅をせずにはいられない男ガリバーの旅行記。だが、乗る船は座礁したり、船員が反乱を起こしたりして、ガリバーは“見知らぬ島”に辿り着く。それも、凝りもせずに4回も。小人の国、巨人の国、飛ぶ島の国、馬の国と旅をして、ガリバーが辿り着いた境地は……。

印象に残った人物

グラムダルクリッチ。巨人の国で拾われた農場主の娘(当然巨人)。ガリバーの世話をやいてくれる心優しい子。農場主から王妃へ売り飛ばされた際も、ガリバー専属の世話人として王宮に雇われる。ガリバーは鳥にさらわれて巨人の国から離れるんだけど、ガリバーを不意に失ったグラムダルクリッチの心情を思うと、とても悲しい。

感想

 小人が支配するリリパット国。巨人が支配するブロブディングナグ国。空飛ぶ島に住む現実を直視しない民が支配するラプータ国。そして知恵ある馬が支配するフウイヌム国。この4国への渡航記が、そのまま小説となっている。
 リリパット、ブロブディングナグ、ラプータ。この3部も面白いんだけど、私は、この「ガリバー旅行記」の本体は第4部フウイヌム国にあると見た。この国の馬はかなり高度な思考を持っており、ガリバーを感激させることもしばしば。しかし一方で、彼らは“嘘”だったり“疑う”といったようなネガティブな言葉は概念自体がなく、その面においては白痴とすら言える。それはまるで、純粋培養された何かの動植物のような、あるいは限定された生活空間の中で英才教育を施された人間のような、“限定的な完璧さ”、もっと意地悪く言えば、“頭でっかちな完璧さ”を感じさせる。訳者である柴田元幸さんは解説でジョージ・オーウェルの言葉を引用しつつ、こんなことを言っている。

フウイヌムが全体主義の最終的な(つまり、体制への順応を強いるのにもはや警察力も必要ない)段階に達していることを看破しているのは、さすが前年の一九四五年に『動物農場』、四九年に「一九八四年」で全体主義批判を展開した作家ならではだし、フウイヌムの理性尊重が死への願望にほかならないこと、フウイヌム国におけるヤフー(人)の位置がナチスドイツにおけるユダヤ人の位置と変わらないことを指摘した点も卓見と言うほかない。

 理性のみで国を支配するフウイヌムたちは、何の問題もないユートピアを作り上げている。そして彼らに心酔したガリバーは、イギリスへ帰ってからも自分がフウイヌムであるかのように振る舞うようになる。しかし彼はそれだけでなく、フウイヌム国で差別の対象であったヤフー、つまり人間を下等な生き物と見做すまでになってしまった。愛していたはずの妻や子供たちにさえ嫌悪感を覚えるようになり、挙句の果てにイギリスではただの家畜である馬と共に生活するようになる。
 今まで「ガリバー旅行記」というものは、単に不思議な国に流れ着いた男のドタバタ喜劇としか思っていなかったけど、全然違ってた。最後の最後ですっかり思考が変わり果ててしまったガリバーの描写を読んでいると、なんだか胸の中で黒い塊がグルグルと渦巻いているような感覚に陥いらずにはいられなかった。
 思うに、これは完璧に“洗脳”なんじゃないだろうか。体制への順応に警察力が不要であったように、何の強制力がなくても感覚が順応してしまう。なるほど、少なくない人がこの「ガリバー旅行記」をディストピア小説と位置付ける意味がよーく理解できた。
 イギリスの伝統芸ともいうべき“皮肉”が物語のあちこちに散りばめられていて、本当に面白楽しく読み進めることができたけど、まさかこんな重い読後感に襲われるとは思いもしなかった。この、楽しいだけで終わっていない所が、300年も読み継がれている要因なんだろうな。「無人島に持っていく一冊」のナンバーワンに躍り出たわ。
 
 やや蛇足気味になるけど、この「ガリバー旅行記」は“視線”も一つのポイントになっていると思う。
1部の小人の国。2部の巨人の国。この2ヶ国では高低差で視線が合わない。3部ラプータ。パッと見は普通の人間と変わらないけど、彼らの目は「片方は内側を向き、もう一方はまっすぐ天を向いて」いるという。そう、視線が合わないのだ。これはラプータ人が年がら年中考え事をしていて、現実に起きていることに目を向けようとしていないことを具象化しているのだと思うんだけど、まあ、とにかく視線が合わない。
 1部、2部、3部とずっと視線が合わずに来て、4部の馬で初めて視線が合う。これは、「この4部が特に重要ですよ!」「これこそが私の言いたかったことですよ!」というスウィフトのメッセージなんじゃないだろうか?
 心から分かり合えて、同化したくなる対象が“馬”ってのが、いかにも皮肉好きなスウィフトらしくて、そうかんがえると、やはり大まかなくくりでは“喜劇”なのかもしれない。

名場面

 ガリバーが“主人”と呼ぶフウイヌムとの問答。章で言うと4~9くらい。ガリバーの熱量がものすごい! 読んでいて、著者スウィフトの言葉なのか、ガリバーの言葉なのか分からなくなってくる。それくらい熱い! そして結局、その熱さが小説には大切なんだろうなあと感じた。「カラマーゾフの兄弟」の有名な章「大審問官」は、ドストエフスキーの思想の神髄だなんて誰かが言ってたけど、それと同じくらいの凄みがあった。

おまけ

 ガリバー旅行記の表紙絵がめっちゃ好みで、これを描いた平松麻さんという人を検索してみたら、なんと画集が出ていました。
 その名も「TRAVELOGUE G」。GはもちろんガリバーのG。もちろん即購入!

 いやあ、本当に、何から何まで素晴らしい小説でした。ありがとぅジョナサン・スウィフト。ありがとう柴田元幸さん、平松麻さん。そしてこの本を世に出して下さった編集の皆さんも、本当にありがとうございます。

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