生きるのが下手/精神科の話

 最近、ツイッターのスペースとかいうもので、少しお友達が増えました。私は、人が大好きなので、とても嬉しいです。少しずつお友達と交流できたらいいなと思います。

 書いていて、思い出しました。私は「お友達」とよく言ってしまうのですが、変な言葉を使うねと揶揄されたことがありました。その一言で、私は何といえばいいのかわからなくなったし、お友達という言葉が出そうになるとすぐに違う言葉に変換した、それは何だか自分の振る舞いをコントロールされてしまったみたいで辛い出来事でしたね。


 私はとても考えて、考えて、深い海の底に沈んで動けなくなってしまうことがあります。生きるのが下手です。周りの人たちがあまり考えずに流れに乗ってできることが、私にはできないのです。どうしたら考えずにいられるのだろうかと考えてしまう、考えないということができない星に生まれてしまったのだと感じています。

 私は、何が楽しいのかわからなくなります。楽しいことなんて存在していないのだと、考えるようにしました。楽しいことがあると思うから毎日が辛く感じるのだし、毎日に失望してしまうのだろうと。

 人から、「君は短期欲求を満たしつつ長期欲求に向かって頑張るようにしなさい、でないと早死にしてしまうよ。」と言われた、だけれど私は短期欲求を満たす術がもうすでにわからなくなっています。全てはまやかしです。自分を閉じ込めるための衣服や、意識を別の場所に向けるための受験勉強や、色々なことを私は試すけれども、全ては欲求を満たすことではない、欲求をごまかすためのものなのです。

 私は長生きできないかもしれない、でもそれでもかまわないと思います。長生きすることが私の幸せだとは思えないからです。


 私は精神科医になりたいという夢があります。私が長年精神科にかかっているからというのが理由の一つです。精神科での薬の処方は、ごまかしでしかなかった、何も解決はしないものでした。

 それから考えるようになりました、解決とは存在しているのだろうかと。

 未解決の問題が解決するものだと考えて向き合うことは正しいことなのでしょうか、私はわからなくなりました。解決するものだ、という考えは患者より上の存在の、「専門家である自分」が、関われば無知な患者を導けるという思いを表しているように思えたのです。

 私は患者側だから、少しはわかるかもしれません。患者は自分なりに必死に考えて、努力して、それでも上手くいかなかったのです、自分でできることは出来る限り試してきたでしょう。

 もちろん、専門家にしか知り得ない情報を伝える、違う療法を試すなど、患者一人ではできないことは、たくさんあります。しかし、私が助けになれば解決するだろう、という考えは患者の抱えた問題を軽く見ることなのではないかと思ってしまうのです。

 精神科だけでなく、医療は人のもつ根本的な・スピリチュアルな問題と関わらなければならないと思います。治療を選択する際も、どのように生きたいのか、どのように生きることがその人にとって幸せなのか、など複雑な問題が生まれます。

 そういった、解決がないようなことを共に考える姿勢が医療には求められていると感じます、だから私は科学的な医療と人間的なケア両方を学び、より深く人に関わっていきたいと考えるのです。

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